「加害者をかばっている」との批判が来たが…栃木・県立高校で起きた「顔を殴る」「頭部を蹴る」暴行事案、読者の"反応"に筆者が驚いたワケ
当然ながら、筆者に加害者を擁護するつもりはない。また被害者は正当に守られるべきだと考えている。そもそもコラム内における「過剰な私刑」は、加害者に対するものというより、むしろ周辺環境への2次被害を及ぼすものを指していた。
被害者救済は最優先ながら、無関係な生徒などを巻き込むとなれば、話は別である。そうした周囲への影響が懸念されることから、「あおるような文言」を盛り込む正当性があったのかと問うている記事だった。
極端な二項対立を求めるネット空間
にもかかわらず、なぜ加害者擁護と取られてしまったのか。理由を考えてみると、「筆者が『当たり前』だと思っていた前提が、読者にとっては『当たり前』でなかった可能性」が浮かんできた。
その前提とは「加害者側に絶対的な非がある」ということだ。それは、わざわざ改めて言うまでもない、社会に生きるうえでの常識である。だからこそ、あえてコラムで明示していなかったのだが、それが「明確に書かれていない」イコール「加害者をかばっている」と取られたようだ。
確かに「加害者が完全に悪い」という前提が薄れている現状はある。本事案をめぐる反応には、被害者の人権が圧倒的に軽視されている一方で、少年法で守られる加害者や、「公の秩序」といった名目で守られる学校・教育委員会などの権利が、相対的に優遇されているとの意見も多々見られ、そこには筆者も理解できる部分がある。それだけ不信感が強まっているのだろう。
今回のようなケースは、そのモヤモヤを晴らす場として機能する。ストレスを解消したい読者は、「加害者へのキッパリとした断罪」を求める。しかし私のコラムに書かれていたのは、解説をもとにした「拡散者の責任論」だった。
本来であれば、加害者に対する処罰と、拡散者の責任論は別件であり、どちらも並行して考えられるものである。ただ、そうした論点整理を、断罪目的の読者は求めていない。肩透かしにあい、義憤の矛先を見失った結果、振り上げた拳を筆者へ向けたのではないだろうか。



















無料会員登録はこちら
ログインはこちら