横浜なのに「巨大団地群」華やかな港町の裏にある街のリアル 高齢化率約30%、都心まで60分…持続可能な郊外住宅地を目指す「洋光台」の今

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これらの集合住宅は、主にUR賃貸住宅や日本住宅公団時代に分譲された住宅だ。駅前の洋光台中央住宅を含め5地区に分かれ、合計約150棟・4500戸以上にもなる。ここに市営・県営住宅を加えると、洋光台エリア全体で約200棟・6000戸にのぼる。

これは以前紹介した(『東洋一のマンモス団地「松原団地」60年経った今』)草加松原団地の再開発前(300棟強・約6000戸)とほぼ同じ戸数であり、大規模な団地群といえよう。

洋光台中央団地
洋光台中央団地(筆者撮影)

洋光台の住宅地(地名が「洋光台」のエリア)は、土地区画整理事業を経て造成された。そのため、片側2車線の洋光台通りをはじめ、整然とした道路網が整備されており、鉄道やバスだけでなく自動車の交通量も多い。南側には環状3号線が通り、西側の港南台エリアにはロードサイド型の店舗や商業施設も見られる。また、洋光台と港南台の間には横浜横須賀道路(通称「横横」)が通り、広域移動も便利だ。

港南台エリア
環状3号線の港南台エリアにはロードサイド店が見られる(筆者撮影)

このように整然とした街並みと道路網、大規模な団地群をはじめとした特徴的な洋光台の風景はどのように生まれたのか。その背景には、横浜市が経験した急激な人口増加がある。

戦後の横浜市の発展と「洋光台」

洋光台はどのような背景で開発されたのだろうか。その経緯は、第2次世界大戦後における横浜の発展の歴史と重なる部分が大きい。

第2次世界大戦後、東京の都市圏拡大とともに横浜市の住宅需要は高まり続けた。これに対し、横浜市は1957年に「横浜国際港都建設総合基幹計画」を策定し、90年までに人口が250万人に達すると予測した。人口増加により市域の6割以上を占める丘陵地で宅地開発が進み、家屋の過密化、緑地不足、不規則な土地利用が起きることが懸念されていた。

そこで計画では農地として保護するエリアと市街地を形成するエリアを指定し、250万人という人口を受け入れようとした。しかし57年から始まった急速な人口増加により、計画の前提が破綻してしまい、市内各地で宅地開発がはじまった。

同じ頃、横浜市には別の大きな構想があった。横浜港のさらなる拡大による産業振興である。50年代、横浜市は桜木町駅から大船駅までを結ぶ鉄道路線「桜大線」の建設を国に要望していた。

初代横浜駅として開業した桜木町を起点に、根岸湾を経由して東海道線と横須賀線が分岐する交通の要衝・大船へ至る路線は、根岸湾を横浜港の一部として開発し、産業振興を進める計画の要となるインフラとして期待された。要望は57年に実り、国鉄根岸線の建設が決定する。

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