距離が伸びても縮んでも…箱根駅伝5区が「最重要区間」であり続ける理由。《「山の神」も誕生》山が生む「劇的で残酷なドラマ」
しかも5区は、往路のアンカーだ。60分ドラマでいえば45分ごろ、サッカーでいえば往路を1試合とするなら後半40分過ぎだ。勝敗が決まるシーンなので、見逃さずに最後まで見届ける人が多い。
そのせいか、箱根駅伝をよく知らない人でも、「あっ、あの山の人だ」と、5区を走って活躍した選手のことをなんとなく覚えている。見ている人の多くは、「あんなところをよく走って上っていくな」と思うだろう。
芦ノ湖に続く国道1号線を、車やバイクで走った人、あるいは実際に走ったり、ウォーキングをしたりした人は、そのことをより実感しているはずだ。尋常では考えられないことをやってのけるのが、5区の走者たちなのだ。
「山を制するものが大会を制す」
その時代時代で、5区という区間は表情を変えていった。
ゴールと6区のスタートが芦ノ湖湖畔の駐車場になったのは、1972年の第75回大会だった。元箱根のコースは、第76回大会にバイパスから市街地になった。
革命的な変化は、2006年、それまで20.9キロメートルだった区間が23.4キロメートルに変更になったことだ。小田原中継所だった鈴廣かまぼこの里の拡張工事により、第82回大会から小田原市本町にあるメガネスーパーに移動した。
「距離が長くなったことで、1区から4区までの借金がチャラになって、6区からの貯金がつくれるようになった。そのため、非常に重要な区間になりました。
今の時代は70分から80分間のレースになりますが、この当時は80分から90分のレースでした。90分は、マラソンでいうとちょうど30キロを超えたくらいでしょう。この時間になると、生物学的に低血糖やエネルギー不足に陥りやすかったり、5区のような気温差が激しいところでは低体温症になったりします。
実際、この距離になったとき、後半、フラフラになった選手が増えました。つまり、それだけ過酷で、きわめて差がつく区間になったんです」
大後前監督は語る。2.5キロメートル増えたことにより各大学の戦略はもちろん、区間配置の選考にも大きな影響があった。
5区の難易度が上がり、かつタイムの収支のバランスを大幅に調整できるようになったため、箱根駅伝の戦略上、もっとも重要なポイントになった。それゆえ、平地区間でエースレベルの走りをする選手が5区に起用されるようになっていった。


















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