あなたの前に置かれた本も、コップも、座っているイスとあなた自身も、すべて絡まりあった縁起の網の中で、一時的に集まっているのだ。
縁起は仏教の中心となる思想であり、基本となる世界観といえるだろう。宇宙のあらゆる万物も、人間社会のあらゆる関係も、その根本にあるのは「縁起」だ。
仏教の究極的な目標
初期仏教経典である「 阿含経(あごんきょう)」では、縁起を理解することがどうして重要なのかについて、ていねいに説明されている。それによると、縁起を見るものは法を見て、法を見るものは仏を見る。ここでの法とは宇宙の法則、つまり真理のことで、仏は仏陀、つまり悟りを開いた者のことをいう。
宇宙の実体が縁起であると見抜いた者は真理を知り、それは悟りを得ることにつながるのだというのだ。
縁起には「流転縁起」と「還滅(げんめつ)縁起」の2種類がある。
流転縁起は存在と生が生じる方向としての縁起をいう。
「これが生じればあれも生じる」というものだ。
反対に、「還滅縁起」は存在と生が消滅する方向としての縁起をいう。
「これが滅すると、あれも滅する」というものだ。
自我とは、絡まりあった縁起の条件の上で、一時的に生じているものにすぎない。
自我も世界も、固まった実体を持たない――。これをそれぞれ「無我」「無常」という。
この事実を見抜けずに、流れる川の水をつかもうとするとき、執着が生まれ、僕たちは苦しみにさいなまれる。
無我。無常。苦しみ。
この3つは、仏教の根本になる教理である「三法印(さんぼういん)」によって整理できる。
三法印は初期仏教の核心となる思想だ。「諸法無我(しょほうむが)」と「諸行無常」「涅槃寂静(ねはんじゃくじょう)」のことをいう。
諸法無我とは、自我は永遠不滅ではなく、固定の実体もなく変化するという意味だ。つまり、自我の現在の状態を表している。
諸行無常とは、あらゆる現象は一瞬も止まることなく、絶えず生滅して変化するという意味で、宇宙の現在の状態を表している。
このような無我と無常の状態を知らずに、固定の実体に執着するときに苦しみが生じる。
反対に、このような無知を自覚して縁起を理解したとき、僕たちは最後の涅槃寂静に到達する。
涅槃寂静は煩悩の炎を吹き消すこと――。これがまさに仏教の究極的な目標だ。
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