50代で「リストラ」された孔子と、完璧なマニュアルを残したマーニー…歴史が教える事業継承のパラドックス
しかし、ここで彼は張り切りすぎてしまいます。「正論」を武器に組織改革を急ぎ、既得権益を持ついわば有力役員たち(三桓氏)の力を削ごうと試みたのです。当然、「お前の力を削ぎなさい」と言われて「はいそうですか」と首を縦に振る者はいません。
結果、孔子の社内政治は失敗。彼は責任を取らされる形で、56歳にして事実上の辞職に追い込まれてしまいます。現代風に例えるなら、ヘッドハンティングされた幹部候補が、社内の派閥争いに敗れて更迭、つまりリストラされたようなものです。
ここから孔子の苦難が始まります。彼は自らの理想である正しい政治(経営)を実現できる場所を求め、諸国を流浪する旅に出ました。
「我は賈(こ)を待つ者なり(私は買い手を待っているのだ)」
そう語り、自分という人材を売り込んで回ったわけですが、行く先々で不採用通知を受け取る日々。この流浪の期間は14年にも及び、その間、殺されかけたり投獄されたりと散々な目に遭っています。
孔子の解釈の余地を残す教え
69歳になった孔子は、ついに他国での仕官(プロ経営者としての再就職)を諦め、故郷に戻る決断をします。しかし、これは敗北ではありませんでした。彼は「実務家」としてのキャリアに見切りをつけ、「教育者」として後進の育成に専念するという、いわばキャリアのピボットを行ったのです。
ここで重要なのは、孔子が「孔子ビジネススクール」とも言える学団で教えた内容です。彼は、ガチガチの教科書を作ったわけではありませんでした。弟子たちとの問答を通じて、「仁とは何か」「徳とは何か」といった抽象度の高い概念を説いて回ったのです。
この「あえて体系化しきらない」「解釈の余地(余白)を残す」スタイルが、結果として彼の死後に効いてきます。



















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