「死ぬのが怖い人」に足りない、たった一つの視点──恐山の禅僧が語る「生き切る技術」
いるのは誰かにとっての「かけがえのない」人、限定版の「かけがえのない」人物だろう。だからと言って、いざ彼が死んでどうなるかと思えば、残された人々はそれでもなんとか生きていく。そういうものなのだし、そうあるべきなのだ。
この話をある集まりでしたら、大ブーイングであった。「和尚! なんてことを言うんだ!」「わしらに死ねと言うのか!」「坊さんの言うことじゃない!」……etc.
「死ね」と言っても死にそうもない連中から囂々の非難を浴びたが、私はそんな単純な話をするつもりは毛頭ない。
「そんなバカなことを言うわけがないだろう。そうじゃなくて、旦那も還暦をとっくに過ぎて、四捨五入すりゃ70じゃないの? だったらこの先、損得を捨て、欲から離れて、自分より先に他人を立てて生きていったらどう? そのことだよ」
と言うと、
「じゃ、他人の言いなりになれってことか?」と返ってくる。
「旦那が人の言いなりになるはずがなかろう。違うよ。人が生きているというのは、他人と一緒に生きている、ということでしょう。一緒に生きざるを得ないんですよ。とすれば、その自分と他人の間に、必ず共通の問題が生じる。というよりも、関係することは問題が生じることだと言ってもいい。そのときにね、その共通の問題に取り組んでいけばよいだろう、ということさ」
共通の問題に取り組むときに重要なこと
この共通の問題に取り組むとき、重要なことが3つある。
その第一は、先に述べたように、損得を離れることだ。それを行って、得をしようと思わない。
二番目は、やったとして、褒められようと思わない。
もう一つは、それで友達を作ろうとも思わない。
やるなら、得をしようと思わない、褒められようと思わない。そして、友達を作ろうと思わない。
一番大事なのは三番目である。人は友達を作ろうとすると、ほとんど無意識的に他人に媚びるし、関係に取り引きを持ち込みやすい。



















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