「死ぬのが怖い人」に足りない、たった一つの視点──恐山の禅僧が語る「生き切る技術」
実は、僧侶はこれに近い生活をしている者が結構多く、長命の人の割合も高いと世上で言われている。
数え年で108歳で遷化(亡くなること)された曹洞宗大本山永平寺第78世貫首、宮崎奕保(えきほ)禅師は、周囲によくこう言っていた。
「禅僧は朝が勝負や」
午前3時起床で始まる朝の坐禅から(禅師はそれより前に自室での坐禅を終えてから、坐禅堂にお出ましになった)、夜の坐禅まで、法要、掃除、勉強と、禅寺の生活パターンはほぼ決まっている。そのパターンを禅師は修行僧時代から一貫して守り続けた。
さらに食べるものは精進料理と決まっていて、これも徹底していた。お供していた旅の途中の昼食時、サンドイッチを食べることになり(禅師がサンドイッチを食べることを知って仰天した)、その店に野菜サンドがないと知るや、侍者がハムサンドのハム抜きを注文していたものである。
ただ、体が丈夫で規則正しい生活をしていても、必ずしも十分ではない。もう一つある。おそらくこれが最も大事ではないかと思われるのが、温かい人間関係である。
90歳を超えるほど長寿の人は、周囲から大切にされている場合がほとんどである。無論、例外はあるかもしれないが、人間関係のストレスが高いところで、高齢者が長期間健康な生活を保つのは、非常に困難であろう。
となると、事はずっと前からの心がけと実践ということになる。誰かに大切にされる人は、それまでに誰かを大切にしてきた人なのである。その結果の温かい人間関係なのであって、付け焼き刃が通用するはずがない。つまり、自分の人生に手間隙かけた人が、そうなるのだ。
実際、一世紀生きたに近い高齢者を世話するとなると、家族の負担は軽くない。その負担を甘んじて背負えるのは、世話する者が世話される者から与えられたものの大きさゆえであろう。
となると、この「90歳超え」の方法も、簡単な話とは言えない。これも無理だとすれば、他に方法はないか。
「自分を大切にしない」法
これこそ最も仏教的ではないかと思う方法、それが「自分を大切にしない」というやり方である。
誰でもお宝は惜しいと思うだろう。だが、ゴミなら簡単に捨てられるはずだ。所詮自分の存在なんぞは大したことではない。自分が死んで本当に困る人など、何人いるのか。取るに足るまい、と考えるのである。
実際、自分は無論、世の中に「かけがえのない」人物など一人もいない。いたら世代交代が不可能である。



















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