「死は語ることはできない」と恐山の禅僧が語る理由──異色の僧侶が40年の修行でたどり着いた哲学
死について語れる人間はいない
世の中にあふれる死についての語りは、死を語っているのではない。彼らが語っているのは、ほとんどの場合、死ぬまでの話か、死んだ後の話にすぎない。死そのものは語れるはずがないのである。
死ぬまでの話は、要するに、老いと病と我が身の始末についての話であろう。どうそれらに対処するかという、生きている間の案件にすぎない。
死んだ後の話は、古今東西、人類の社会と文化のあるところ必ず語られるが、その物語が本当かどうか確かめる術は原理的に存在しない。
だいたい私の知る限り、「死後」の話をしている人物は、全員生きている。その話のすべては、生きている人間が、生きている間に、生きている限りの経験として、なされているにすぎない。死人が出てきて死後の話をしているわけではないのだ。



















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