宮川氏がジョルジェットの才能を認めたのはもちろんであるが、ジョルジェットも宮川氏の前向きな姿勢と、イタリアと日本という異なったメンタリティーの違いや仕事の進め方をうまくコントロールする能力を高く評価した。
それゆえ多くの日本のクライアントに「Designed by Giugiaro」のプロダクツを勧めることができたのである。
しかし、そんな順風満帆な中でも、宮川氏の冒険心はとどまるとことを知らなかったようだ。
イタルデザインの日本のクライアントを中心とした代理店契約には留まったものの、イタルデザインが順調に回り出したのを見届けると経営陣としてのポジションをなげうって、自らの会社を起した。それはイタルデザイン設立から、わずか3年後のことであった。
「僕はタイムカードがあったり、いろいろな規則があると聞いただけでげんなりしてしまうんだ。イタルデザインも当面、安泰だと見えてしまうと、次の何かに挑戦したくなってね」と宮川氏は笑って話してくれた。
こんな様子であるから、私たちが知っているジウジアーロの手による国産車のプロジェクトは、このような体制のもとで動いていたということだ。
「アズテック」での苦い思い出
イタルデザインを離れて最初に手掛けたのは、スズキのイタリアにおける販売代理店ビジネスであった。
彼の“バイク野郎”たる血が騒いだのだろうか。イタリアの伝手(つて)を最大限に利用して、PRのためにスズキヨーロッパ・レーシングティームを結成し、マン島TTレースで優勝までしてしまった。
そうかと思えば、大きな失敗もあった。日本のバブル期には、その豊富な資金を活用していくつもの少量生産スポーツカープロジェクトが生まれたが、宮川氏もその渦の中に巻き込まれた。
イタルデザインがコンセプトモデルとして1988年トリノショーで発表した「アズテック」がそれだ。
左右セパレートコックピットを持つミッドマウント2シーターは、そのスタイリングも絶賛され、宮川氏もジョルジェットの夢の実現のために一肌脱いだ。



















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