つまり、ワンオフカーのような少量生産のサポートではなく、普通に販売されるモデルをより美しく、効率的に作るためにサポートを行うということだ。
その原案が日本で議論され、そのきっかけを作ったのが日本人であったということは、とても興味深いことではないか。
当時のジョルジェットは、最もデザイナーとしても脂の乗った時期であった。この前年にはマセラティ「ギブリ」(初代)、デ・トマソ「マングスタ」、いすゞ「117クーペ」という世紀の傑作を同時並行でデザインしている。
とはいっても、いろいろなしがらみのあるヨーロッパの自動車産業の中で、生まれたばかりの個人商店のようなイタルデザインがコンスタントにデザイン開発の仕事を取ってくるのは容易なことではない。そこで活躍したのが、宮川氏の日本へのアプローチだった。
「イタリアンデザインは日本の自動車業界においても話題になっていたし、そもそも日本の自動車産業は活気があった。何でも挑戦してみようというポジティブな機運に溢れていたんだ。だから私のような20代の若者の提案にも乗ってくれたんだろう」と宮川氏。
その後のイタルデザインの躍進は、皆が知るところ。いすゞ「ピアッツァ」、同「ジェミニ」、日産「マーチ」、スバル「アルシオーネSVX」など、国産車だけでも枚挙にいとまがない。
世界1周バイク旅の途中で
では、そんな宮川氏はいったいどんな人物であったのだろうか?
宮川氏は1937年、群馬県前橋市の裕福なファミリーに生まれ、バイクマニアであった父の影響を受けて、幼少期から自動車に高い関心を持っていた。
大学時代には当時、皆が夢見たバイクでの世界一周プロジェクトに強く感化された。そして粘り強い各界へのアプローチの結果、山口自転車のスポンサーのもと、1960年にバイクでの世界1周をスタートさせる。
順調に進むかと思ったツアーであったが、思わぬところでつまずいてしまう。イタリアへの入国時に、税関でバイクの持ち込みにストップがかかってしまったのだ。



















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