当時、急成長していた日本の自動車産業に対して、ヨーロッパ各国は大きな脅威を感じており、イタリアも例外ではなかった。日本車の輸入に関しては、若本の貧乏旅行のためのバイクであろうとも、差し止めがかかったワケだ。
1960年といえばローマオリンピックの真っ最中で、日本の通信社は猫の手も借りたいほどの大忙し。そこに紹介で現れた日本人学生はすぐにアルバイトとして雇われ、トリノショーへの取材も依頼された。
プリンスのスタンドでは「スカイラインスポーツ」が展示されていたが、若き宮川氏はその美しいプロトタイプよりも、着物姿でスカイラインスポーツの説明をしていたマリーザ嬢のとりことなってしまったのだ。
こうしてイタリアで“ストップオーバー”を余儀なくされてしまったこと、日本車の“キャンギャル”として美貌のイタリア人がいたこと、これらすべては宮川氏をイタリアと日本のカーデザインの懸け橋となるべく仕掛けられた、神の思し召しではないかと筆者は思う。
さらにその“思し召し”をもうひとつ挙げるなら、その美貌のマリーザ嬢と宮川氏は出会って数年後に結婚することになるのだが、なんと彼女はランチアの重役ファミリーの娘さんであった。
ジョルジェットとの出会い、そして
イタリアで実業界に食い込むために最も重要なのは、ハイレベルな人間関係である。そのハードルもクリアしたし、何よりイタリアのラグジュアリーブランドの本質を学ぶ機会まで与えられたのだ。
さらに加えるなら、当時からマリーザ嬢が日本文化に強い関心を持ち、日本語を学習していたというのだから、これは出来過ぎではないか。
若きジョルジェット(宮川氏の1歳年下)と宮川氏が出会ったのは、イタリアへ腰を落ち着かせてから、まもなくであった。
カロッツエリア・ベルトーネとマツダをコーディネートした宮川氏は、ベルトーネのチーフデザイナーであったジョルジェットとプロジェクトを進めた。その初仕事は1963年の「東京モーターショー」に出展されたマツダ「ルーチェ1000/1500」である。



















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