一度は袂をわかった喜多川歌麿とも復縁。大河ドラマ「べらぼう」主人公・蔦屋重三郎の死に際のカッコ良さとは?
『東海道中膝栗毛』の作者・十返舎一九(1765〜1831)も蔦屋重三郎の恩を受けました。駿河国(現在の静岡県)の武士の家に生まれた十返舎一九は、江戸に出て、仕官しますが、程なく大坂に移り、文筆生活に身を投じたと言われています。
寛政6年(1794)、十返舎一九は再び江戸に赴きます。そして、詳しい経緯は不明ですが、蔦屋重三郎の食客となるのです。蔦屋で居候しつつ、創作活動をしていたのではないでしょうか。
寛政7年(1795)、『心学時計草』ほか3種の黄表紙を出版した十返舎一九。これが当たり、彼は有名になっていきます。そうしたことから、重三郎は新たな才能を発掘・起用し、挽回を図ろうとしていたことが分かります。
喜多川歌麿との「復縁」
そして、一度は袂をわかった喜多川歌麿とも重三郎は「復縁」したと言われています。寛政7年(1795)頃、歌麿が蔦屋から『青楼十二時』(遊郭の1日を1刻ずつ、2時間ごとに描いた12枚のシリーズ)を刊行したことが、その証拠とされます(もちろん、完全に仲直りしたわけではないとする説もあります)。
江戸の出版界に大きな足跡を残してきた蔦屋重三郎ですが、寛政8年(1796)の秋に、重病となりました。一説によると、脚気だったとされます。
病は更に悪化し、寛政9年(1797)5月6日、重三郎は「自分は今日の昼の12時に死ぬだろう」と言うまでになります。が、12時になっても重三郎は死なず。彼は「命の幕引きを告げる拍子木がまだ鳴らないな」と笑いながら語ったと言います。
が、こう話して後、重三郎は黙して語らず。その日の夕方についに亡くなったのでした。享年48。重三郎がもっと長生きしていたら、日本の出版界にさらに、大きな影響を与えていたと想像されるだけに、惜しいと思わざるをえません。
(主要参考文献一覧)
・松木寛『蔦屋重三郎』(講談社、2002)
・鈴木俊幸『蔦屋重三郎』(平凡社、2024)
記事をマイページに保存
できます。
無料会員登録はこちら
ログインはこちら
印刷ページの表示はログインが必要です。
無料会員登録はこちら
ログインはこちら



















無料会員登録はこちら
ログインはこちら