一度は袂をわかった喜多川歌麿とも復縁。大河ドラマ「べらぼう」主人公・蔦屋重三郎の死に際のカッコ良さとは?

著者フォロー
ブックマーク

記事をマイページに保存
できます。
無料会員登録はこちら
はこちら

印刷ページの表示はログインが必要です。

無料会員登録はこちら

はこちら

縮小

また、蔦屋から刊行された『絵本武将一覧』(北尾重政画)や『絵本江戸爵』(喜多川歌麿画)など10種にものぼる絵本の版権が譲渡されたとも言われているのです(寛政9年=1797年に万英堂和泉屋源七と永寿堂明石屋伊八から刊行)。

蔦屋の経営状況が良好ならば、このようなことをする必要はないでしょう。やはり、この頃の蔦屋の状況が悪化していたからこそ、再版や版権譲渡という手段を講じたのではないでしょうか。

確かに寛政年間には、蔦屋から刊行された歌麿の作品がヒットしました。だが、それだけでは、寛政3年(1791)の弾圧の損失を補うことができなかったのではないかと思われます。

それでも新たな才能の発掘に執念

苦境のなかにあっても、重三郎は、新たな才能の発掘に目を凝らしていたように感じます。例えば、『南総里見八犬伝』で有名な戯作者・滝沢馬琴(1767〜1848)。

彼は武士の家に生まれますが、9歳の時に父を亡くし、不幸な境遇でありました。24歳の時に、山東京伝に弟子入り。寛政3年(1791)には処女作の黄表紙『尽用而二分狂言』を刊行しています。そして翌年には、蔦屋の番頭を務めているのです。当初、馬琴の著作物はほとんど蔦屋か鶴屋から刊行されています。蔦屋重三郎は馬琴に才能ありと踏んでいたのでしょう。

寛政8年(1796)に蔦屋から刊行された『高尾船字文』は馬琴の出世作となりますが、そうしたことを考えてみても、重三郎は馬琴の恩人と言えるでしょう。

次ページ蔦重が発掘した才能
関連記事
トピックボードAD
キャリア・教育の人気記事