人口約1万1000人の北海道浦河町でインド人《2015年13人⇒2025年327人》急増の"切実な事情"

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稲岡さんの携帯にはインド人「町民」約200人の連絡先が入っていた(2023年5月取材時。今はもっと多いはずだ)。彼らのアドレスに、ヒンディー語に訳した「広報うらかわ」を一斉送信した。

稲岡さんが最優先課題として力を注ぐのは「母子支援」だ。妊娠した女性にヒンディー語の母子手帳を配布した。稲岡さん自ら病院に付き添って通訳を務める。病院への同行はホースマンを牧場に紹介するエージェントが行なうのが基本だが、ヒンディー語が話せるわけではない。妊娠は命に関わる重大事だ、稲岡さんは自分の仕事ととらえた。

「ラジャスタンでは『女性に教育は必要ない』と考える人たちが今もまだいて、小学校を出ていない女性もいます。彼女たちはそういう地域からいきなり外国に来ている。言葉の問題以前に、社会の仕組みみたいなことでわからないことが山ほどあると思うんです」

「インド人の肩を持ち過ぎだ」批判されたことも

インド人女性にはベジタリアンが多いが、冬が長い北海道では野菜が十分に調達できない。ビタミン不足は彼女たちの健康だけではなく、妊娠すれば胎児の成長にも影響を及ぼす。稲岡さんは町に相談し、沖縄など全国から野菜の共同購入をして家庭に配布する仕組みも作った。

夜の馬房
夜の馬房―作業は続く(写真:『HHH(エイチエイチエイチ)インド人、ジャパンの競馬をHelpします!』)

多忙を極める稲岡さんだが、メディアの取材の通訳も行なっていた。取材を始めたころの私にも「通訳だけならいいですよ」と言ってくれたのだが、一方でこんなことも口にした。

「インドの人はJICA(国際協力機構)の人が来ても、写真を撮られるのを嫌います。自分の顔と一緒に発言が出ることにOKという人はいません。本音なんてしゃべりませんよ」

断定的な言葉の中に、稲岡さんの警戒感が伝わってきた。続けて、

「どんな本になるんですか?」

「いや、それはボクが一番知りたいぐらいで……」と、私は返答に窮する。どんな本になるかが決まっているなら、取材する意味などない。さらには、驚くような質問が飛んできた。

「メンタル、強いですか?」

え? ……決して強くは……でも、なぜ?

HHH インド人、ジャパンの競馬をHelpします!
『HHH(エイチエイチエイチ)インド人、ジャパンの競馬をHelpします!』(集英社)。書影をクリックするとアマゾンのサイトにジャンプします

「私、1年目は心を病みそうでした」

後であちこち取材をしてわかったのだが、一部の牧場経営者から「インド人の肩を持ち過ぎだ」「彼らの言うことを鵜呑みにしている」と批判されたことがあったらしい。

「でもインドの女性たちは、私の娘と同年代で、私を『お母さん』、子どもたちは『おばあちゃん』と呼んでくれて、やりがいもあるんですよ。外国に暮らして苦労しているご夫婦や若い人たちをこの町に居やすくしたいなって、決してキレイごとじゃなくて。もう知り合っちゃったし、頼られちゃってるので」

天国に行くための徳を積んでいるのかも、と微笑む稲岡さんに、私は敬意を持った。同時に「通訳をお願いするのは難しそうだ」と感じた。私の取材は日帰りや数日で終わるようなものではないからだ。

でも、じゃあ、どうしよう? ……と思いを巡らせていた2023年6月、稲岡さんが「体調を崩した」と、本人ではなく、役場から連絡が入った。しばらくして職場に復帰したそうだが、私は「困った」というより、むしろ吹っ切れた。

河野 啓 ノンフィクション作家

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こうの さとし / Satoshi Kouno

1963年愛媛県生まれ。北海道大学法学部卒業。1987年北海道放送入社。ドキュメンタリー、ドラマ、情報番組などを制作する一方、ノンフィクションの執筆に取り組む。著書に『デス・ゾーン 栗城史多のエベレスト劇場』(第18回開高健ノンフィクション賞)、『北緯43度の雪 もうひとつの中国とオリンピック』(第18回小学館ノンフィクション大賞)、『ヤンキー 母校に恥じる ヨシイエと義家氏』など。

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