すべての苦しみの種は【ほとんど妄想】とバッサリ切って捨てる…仏教が説く"驚きの世界観"とは

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そして、善心所をどんどん大きくしていくのです。すると、あなたの心は明るくなり、広く、強く、寛大になっていきます。少しずつで構いませんので、心の中にある水を、きれいにしていくことを目指してください。

「ほとんど妄想」と割り切って生きる

ここからは「仏教の存在論」についてお話ししていきます。私たちが見たり感じたりしているモノやコトが、どこにどのように存在し、人間はそれをどう認識しているかについてです。

仏教では、人間は「六根(ろっこん)」という6つの感覚器官を通じて、存在をとらえることができるとしています。六根の内訳は「眼(げん)」「耳(に)」「鼻(び)」「舌(ぜつ)」「身(しん)」「意(い)」の6つです。

最初の5つは、「視覚」「聴覚」「嗅覚」「味覚」「触覚」に置き換えるとわかりやすいでしょう。目の前にあるリアルなものを存在として認識する感覚です。

6つめの「意」は意識の意、すなわち私たちの心のことで、これだけが唯一例外的に、過去や未来など目の前にない存在を認識することを可能にします。そしてこれが、時に問題を起こします。過去を悔やんだり、良くない未来を妄想したり……。というように、苦しみを生む種になってしまうことがあるのです。

昨晩やらかした夫婦喧嘩を翌日も引きずっていて、夫や妻に対して、怒り続けていたり。あるいは、友人から言われて傷ついた一言が忘れられず、何年も経ってからも何度も思い出して「許せない」と腹が立ったり、落ち込んだり。

こういう怒りや悲しみは、目の前にある存在が生じさせているリアルなものではありません。あなたが心の中で勝手につくり出した"創作物"、つまり妄想です。

今、目の前にないものを意識して、それに対して心を反応させ、自ら怒りや悲しみをまねいているだけなのです。

続いて、目の前にあるリアルなものも含めて、その存在はどこにあるのか、という話をしていきます。

説明がやや抽象的すぎるかもしれませんので、シンプルに考えましょう。その「モノやコト」の存在は、あなたの外側にあるのか、内側にあるのか、それをどのように認識するか、という話です。

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