《日中関係》を「自衛隊の在り方」から再考してみた。風変わりな"バスツアー"に参加し、「幼少期」を追憶する。自衛隊や軍はどうあるべきか?
少し前まで、大連周水子国際空港は軍用空港でもあったため、撮影が禁止されていた。飛行機が着陸すると、「外の撮影はご遠慮ください」というアナウンスが流れたものだ。現在も軍民共用空港であり、軍用機が離着陸することもある。
故郷が「前線」にならないように
日本で暮らしていると、よく「出身はどちらですか」と聞かれる。「福建省です」と答えると、知らない人もいる。「台湾の向こう側です」と説明すると、大抵すぐに理解してもらえる。
台湾と海峡を隔てた福建省は、言葉や料理、生活習慣まで、台湾と多くの共通点を持つ。文化や伝統の結びつきも深く、親戚や知人の中には台湾に嫁いだ人も少なくない。
しかし、政治的な事情から、福建省は長く「福建前線」と呼ばれてきた。日本では「桜前線」「梅雨前線」「紅葉前線」など、自然にまつわる穏やかな言葉に「前線」を使うことが多いが、中国では「前線」とは、戦場で敵と向かい合う最前線を意味している。
台湾海峡の情勢が緊迫するたび、故郷の親友たちは「もし戦争に巻き込まれたらどうしよう」と不安を漏らす。
普段、日本のメディアを見ていると、台湾などでの「中国の軍事的脅威」といった報道が目立つ。ただ、今回の行事で、自衛官の来場者に対する丁寧な対応を見たことで、筆者は昔の「解放軍の親切さ」をふと思い出した。時代も国も違うが、民を守る立場にある人が見せる思いやりには、共通の熱意があるのかもしれない。
半世紀ほど前、私は福州市郊外にある小学校の宿舎で育った。母は教師で、隣の解放軍の駐屯地は、私たち「先生の子」の遊び場でもあった。
ブランコや滑り台はなかったが、広々とした敷地内は思いきり走り回るのに十分だった。小さな池にはカエルが住んでいて蓮が群生しており、自然観察の絶好の場所だった。
駐屯地には診療所もあり、風邪をひいたときは母に連れられて軍医に診てもらった。無料だったかは覚えていないが、あの時の軍医の親切な対応と、手渡された薬の温もりは今でも覚えている。
駐屯地では時々「露天映画」が上映され、これが周辺住民にとっての貴重な娯楽だった。子どもも大喜びで、小さな腰掛けを持って早めに出かけ、前の席を確保した。頭上には満天の星が瞬き、まさに最高の夜だった。
炊事班の解放軍のおじさんが豆腐を作るときには、豆乳や豆花を子どもたちに分けてくれたこともあった。解放軍が地域住民と親しく接する姿が、はっきりと印象に残っている。
今でも思う。地域にふれあいの場を開き、子どもたちと交流し、映画を上映し、音楽会を開き、美味しい豆腐を作る——「軍」にはずっと、そんな温かな存在であってほしい。


















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