10円駄菓子《ヤッターめん》「取引先夜逃げで未払い1500万」「粗利数円」でも倒産せずに借金ゼロを貫く大阪町工場の "逆説の経営哲学"

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そこまでの信頼を得るジャックと中野さんは、どんな歴史を歩んできたのだろう。

ジャック製菓社長 中野幹さん
朗らかな笑顔がトレードマークのジャック製菓社長 中野幹さん(筆者撮影)

マスコミ4社の内定を蹴った「家業」の重み

ジャックは大正10年頃、大阪・谷町に創業した企業だ。中野さんの祖父 利一(りいち)さんが兵庫・但馬から出てきて、おそらくおかき店として起業したという。その後、生野区で菓子問屋を営むが、第2次世界大戦の戦火を避けて現在の東大阪市永和に疎開。このとき、「ジャック製菓食品工業」と名乗った。「ジャック」とは、トランプの「11」からとった名前だ。利一さんはカラーテレビをいち早く購入するような「ハイカラで新しいもの好き」だったそうだ。

戦前、生野区で菓子問屋「菊水軒」を営んでいた時代の初荷(年はじめの出荷)の様子
戦前、生野区で菓子問屋「菊水軒」を営んでいた時代の初荷(年はじめの出荷)の様子(写真提供:ジャック製菓)

その後、昭和20年代の終わり頃に、中野さんの父 進さんが2代目を継いだ。

工場では最盛期、50~60人の職人たちが働いていた。中野さんは3人兄弟の長男で、「ボン」として大事にされたそうだ。ただ、工場がずっと稼働していたため、両親は忙しかった。

「基本ほったらかしで育ちました。工場に子供が入ることを父が嫌がったので、2人の弟と、いつも外で遊んでましたわ」

中野さんが小学生になった頃、ジャックは駄菓子屋に卸す駄菓子を作り出した。売れ筋は板ガム。カードをつけて、「何枚か集めてジャックに送れば、景品が当たる」仕組みを作っていた。景品用に、両親はプラモデルや電池付きのレーシングカーなど、最新鋭のおもちゃを買って家に置いていた。子供にとっては夢のような環境で、中野さんはこっそり遊んでいたが、しばしば見つかって怒られたという。

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