スリーマイル島、チェルノブイリ、福島……原発事故で企業の経営者はどのように裁かれたか。復権を阻むために必要な「事故後責任」の追及
2006年4月28日の現地メディアFACTS紙のインタビューで同氏は、「チェルノブイリ原発は既存の原発の中で最も安全な発電所だ。事故を経験した恐怖から必要な改善が行われた」などと、同原発の稼働継続を正当化した。さらに「原子力に対する自分の立場は変わらない。原発なしにウクライナはやっていけない」と原発推進の姿勢を明言している。
ブリュハノフ氏は2021年に死去した。同氏が再稼働に加担したチェルノブイリ原発は2000年末まで稼働を続けたが、完全閉鎖した後も4号機の廃炉実現のメドは立っていない。
同氏に対して、チェルノブイリ原発従業員や原発関係者からの評価は高い。同氏の訃報記事では、「チェルノブイリ原発の従業員は皆、特別な敬意をもってブリュハノフ所長について語った」「訪問したブリュハノフ氏を同原発の従業員は立ち上がって拍手で迎えた」と語られている。
クーン氏とは対照的に、ブリュハノフ氏は実刑判決を受けた。しかし、司法が原発事故の個人責任追及に成功した事例とは評価しがたい。「事故原因はブリュハノフ氏ら原発従業員による安全基準違反」というのが当時のソ連の見解であった。しかし1992年の国際原子力機関(IAEA)の報告書は、原子炉設計の欠陥がもう一つの事故原因であったと指摘している。ブリュハノフ氏自身も後に「設計者の責任を隠すために自分が裁かれた」と認めている。
ブリュハノフ氏を裁いた裁判は「立ち入り禁止ゾーン」内で行われ、一般の傍聴者は入れない非公開裁判に近い。この裁判について、ブリュハノフ氏は後に「虚偽の証言が積み重ねられたことで、われわれは事故原因の検証ができなくなった」と語っている。
当時のソ連では原子炉設計者の事故責任を裁く法制度はなく、裁判公開の原則も十分に守られなかった。司法の場で事故に至る意思決定について真相究明をすることは、やはり失敗に終わった。
追及されなかった「事故後復権」の責任
スリーマイルでもチェルノブイリでも責任追及が失敗ないし中途半端に終わったというとき、それは公正な司法の場で真相解明ができなかった、ということだけではない。両氏に対する責任追及には重要な視点が欠けている。それは彼らの「事故後の行い」に対する責任追及である。
クーン氏、ブリュハノフ氏、ともに事故を起こした組織のトップでありながら、「事故原発の再稼働」を推し進めた。本来、汚染の除去や廃炉に注力しなければならない危険な現場で、発電事業を行うという愚行である。廃炉や汚染防止に振り向けるべきリソースは分散され、発電所の運転員は余計な被曝を強いられた。このような先例を作った罪は重い。
さらに両氏は、多くの住民を苦しめ、同僚・部下たちの命も奪った原発事故を組織トップとして経験しながらも、その後、原発利用を推進した。この「事故後のふるまい」に対する責任追及は、現地の報道ではほとんど見られない。クーン氏は「企業立て直しの立役者」と賞賛され、ブリュハノフ氏は「不当な刑を受けたスケープゴート」として同情的に描かれた。
このような報道や言論の姿勢が、幹部らの名誉回復を後押しした。事故を起こした組織のトップが尊敬されるような社会的価値観が作られ、その中で原発再利用も進められたのだ。
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