経営のプロも「ビジネスになるか!」と一喝してたのに…なぜ「セルフうどん」は全国を制覇? 丸亀製麺・はなまるうどんの歴史から読み解く
当時の「はなまる」は「ライバルはマクドナルド・吉野家」と公言、これまでの「セルフうどん」の客層であった成人男性だけでなく、女性や家族連れ、部活帰りの高校生でも入りやすい「和の格安ファストフード」を作り上げた。味だけでなく空間づくりにも配慮したからこそ、既存のセルフうどん・製麺所を知る香川県民からも、支持を受けることができたのだ。
さらに、おにぎり・カレー・チャーハン(現在は終売)などご飯ものの充実で、夕方でも単価を獲りやすかった。広い客層を獲れる集客力・夜営業といった弱点を克服した「全国展開型・セルフうどん」は、「はなまるうどん」が発明・確立した、と言っていい。
創業後の「はなまる」は、香川県内ではあっという間に多店舗展開に成功、岡山・札幌を経て2002年9月に東京・渋谷公園通りに進出。ほどなく「37坪の店舗で来客は1日2200人(1日50回転)月の売り上げ2500万円」(2003年1月11日「週刊東洋経済」より)という、飲食関係者なら誰もが目を剝く繁盛店に成長した。当時は「讃岐うどん」が全国的に一大ブームを巻き起こしており、都内に提供店が少なかったことも、成功の要因だろう。
生き残った店、敗れ去った店…乱立した「はなまる型・セルフうどん」何が運命をわけた?
ただ、他の経営者も「はなまる」登場や「讃岐うどんブーム」を見過ごさなかった。


まず香川県からは、JR四国・JR東日本の子会社が食材提供・運営を分業で請け負う「さぬきうどん職人」、観音寺市に本店があり、県内のテレビCMで抜群の知名度があった「将八うどん」、観光名所・金刀比羅宮に近い「こんぴらや」などが、「はなまる」と前後して次々と渋谷に進出した。
多くの店舗は、「はなまる」を意識した「かけうどん100円」ラインを維持、「将八」にいたっては「かけ99円」という衝撃的な価格戦略をとったものの、「将八」「こんぴらや」はあえなく閉店。
「さぬきうどん職人」はJR四国管内での商号「めりけんや」や「親父の製麺所」などに名前を変え、浜松町・池袋などで「駅うどん」として生き残っている。

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