「永野芽郁騒動」で揺れた映画《かくかくしかじか》が意外にも健闘の理由は? 見る人次第で傑作にも凡作にもなる「東村アキコ」の自伝的作品

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ときに、彼女に呆れたり、苛つかされたりするし、恩師の言動にストレスを感じ、憤ることもある。しかし、2人の間のやりとりやそれぞれが抱く感情は、誰もがどこかで経験してきている要素が溢れている。だから、気がつくと、どちらかに感情移入していて、すっかり心を奪われている。

そこに映るのは、王道の人間ドラマだ。厳しい師弟関係をもとに、努力と根性の汗を流して、それが成功と勝利につながり、笑いと悲しみの果てに感動の涙が待ち受ける。万人に伝わるだろう真っ直ぐなわかりやすいストーリーになっている。

永野芽依
ぐうたら高校生の主人公が、竹刀を振り回すスパルタ絵画教師のもとで成長していく(画像:映画『かくかくしかじか』公式Xより引用)

見る人の属性によって傑作にも凡作にもなる

一方、さまざまなエピソードには既視感がある。どこかで観たことがあるシーンばかりのようにも感じられてしまう。

たしかに、感情は揺さぶられるし、涙させられるし、感動もある。ただ、ストーリーテリングの新しさには欠けるから、あっさりと流れ去ってしまい、余韻として残らない。

本作は、東村アキコへのシンパシーの有無によって、作品の見え方が180度異なるかもしれない。彼女の漫画で笑って涙したファンであれば、いまの東村アキコを形作っている彼女の本質の部分が濃密に描かれた傑作に映るだろう。

しかし、彼女のことを知らず、作品を読んだことがなければ、ありがちなストーリーの凡作に映るかもしれない。個人的には、もちろん彼女の名前も漫画も知っているが、深い思い入れはないので後者に近い。

それでもいい映画だと思う。それは、永野芽郁と大泉洋の名演によって、心躍らせる物語になっているからだ。

キャラの立った登場人物2人を、永野芽郁と大泉洋それぞれが自身のキャラクターも投影させた芝居で体現し、躍動感溢れる数々のシーンが観客の心をわし掴みにする。そして、いつの間にか作品の世界観に引きずり込まれていく。

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