【朝ドラ あんぱん】 やなせたかし、敗戦後に「運命を変えた」就職先 ‟宝物”との出会いが生涯の伴侶を引き寄せる

著者フォロー
ブックマーク

記事をマイページに保存
できます。
無料会員登録はこちら
はこちら

印刷ページの表示はログインが必要です。

無料会員登録はこちら

はこちら

縮小

そして部隊の様子もすっかり変わってしまった、とやなせは振り返る。それまで自信に満ち溢れていた好戦的な武闘派タイプの兵はすっかり大人しくなり、代わりに脚光を浴びたのが、映画監督、カメラマン、小説家、編集者、画家、役者といったクリエーター気質の文化系の兵たちである。

やなせもそんな一人であり、早速、壁新聞を発行したりしていると、次第にいろんな将校たちがやなせのもとを訪れて「これから国に帰ってどうすればよいでしょうか」などと相談するようになったという。

そのうちに「絵を習いたい」という将校が一人、また一人と、やなせのもとを訪れるようになり、「じゃあ一緒に教えましょう」とやなせは指導を引き受けている。そうした文化の輪は隊のなかでどんどん広がったようで、将校たちは絵画部や俳句や短歌の会、演劇サークルなどを結成したりするようになった。

やがて演劇コンクールを開催しようという話まで持ち上がると、やなせは「大隊本部の下士官だけを集めた芝居を上演しよう」と提案。脚本を書いて、演出まで担当し、連日のように練習したという。

歌もたくさん作ったため、いよいよ日本に帰るために船に乗り込むというときになると、「あの歌が好きだから、歌詞を書いてくれ」と何人もの兵隊たちに頼まれたという。やなせは必死に対応しながら、自身の才能に自信を持ったのではないだろうか。のちに、こんなふうに振り返っている。

「今ぼくは、マンガを描き、詩を書き、歌も歌う、というのが仕事になっていますが、実は兵隊の頃、すでにほとんど同じことをしていたわけです」

「ぼくは泣かなかった」故郷に帰還して知った弟の死

復員船は無事に佐世保に着き、そこから列車を乗り継いで、故郷の高知県へ。「お母さんただ今帰りました」と告げると伯母は泣き出したという。そして、やなせにこう告げた。

「チイちゃんは死んだぞね」

弟の千尋が戦死――。1944年12月30日、駆逐艦「呉竹」の対潜水艦探知室の分隊士として、台湾とフィリピンの間にあるバーシー海峡にて22歳で亡くなったという。

次ページはこちら
関連記事
トピックボードAD
キャリア・教育の人気記事