昭和天皇の“出家”で終戦を画策?「太平洋戦争」 敗戦間際に《天皇の弟・高松宮と近衛文麿》が交わした仁和寺の極秘密談
出家して仁和寺に入り、法皇となった平安時代の宇多天皇にならい、昭和天皇を仁和寺に迎えて「裕仁法皇」とする。そうすれば連合国も手出しはできまいと近衛は踏んでいたようだ。
同じ茶室で高松宮に会った近衛は、前日の会談の内容を伝え、万一の場合に備え退位した天皇を仁和寺に迎える準備を整えているとして、了解を求めたという(同)。高松宮は「文書ヲ見テ夕食、話」(『高松宮日記』第8巻)としか記していない。
車窓から見た運命を照らし出す「朝日」
高松宮が陽明文庫を出たときには、もう午後9時を回っていた。京都20時52分発の東京ゆき急行列車で帰るつもりが、1時間ほど遅れているという知らせを聞き、出る時間を遅らせたのだ。それだけ話し合いに時間をかけたということだろう。
急行列車は京都を21時50分ごろに出た。翌朝目覚めると雪が降っていた。東海道本線の夜行の車窓から見る雪景色は珍しかった。
「〔神奈川県〕大磯、平塚ノ辺リ川面ニ湯気一面ニ立チ岸ハ白雪ニ朝日テリ珍シキヨキ眺メナリ」(同)
この「川」は大磯―平塚間で渡る花水川か平塚―茅ケ崎間で渡る相模川だろう。一面に川霧が立ち込めるなか、雪化粧した河原が朝日に照らされて輝いている。高松宮にとって近衛の腹案は、果たして先の見えない日本の運命を照らし出す「朝日」のように映っただろうか。
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