昭和天皇の“出家”で終戦を画策?「太平洋戦争」 敗戦間際に《天皇の弟・高松宮と近衛文麿》が交わした仁和寺の極秘密談

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陽明文庫所蔵品の閲覧を目的として建てられた「虎山荘」。内部に茶室がある=京都市右京区(写真:『歴史のダイヤグラム 3号車』より)
あの人物が、あの列車に乗っていなければ歴史は全く変わっていたーー。
政治学者の原武史氏は、鉄道に絡めて時代や社会を論じる「鉄学者」としても知られています。原氏の新著『歴史のダイヤグラム 3号車』には、教科書には載っていない日本の近現代の“鉄学的”エピソードが多く紹介されています。
今回は同書から、「昭和20年の仁和寺の密談」を一部抜粋し紹介します。

高松宮と近衛文麿の密談

1945(昭和20)年1月24日、昭和天皇の弟の高松宮が東京21時発の広島ゆき急行列車に品川から乗った。「此ノ頃寝台デ旅行出来ルノハ私達位ノモノナルベシ」(『高松宮日記』第8巻)と言わざるを得ないほど、戦況は悪化しつつあった。

大雪のため列車は2時間ほど遅れ、25日9時半ごろ、滋賀県の大津に着いた。高松宮は近江神宮で開かれた「大化改新1300年祭」に出て大津で泊まり、26日は大津や大阪府高槻の軍需工場を視察してから京都の仁和寺に隣接する陽明文庫に向かった。

陽明文庫は公家の名門、近衛家に伝わる古文書、典籍、美術品などを保管する施設で、38年に当時の首相、近衛文麿が設立した。高松宮が陽明文庫を訪れたのは、近衛に会うためだったのだ。

陽明文庫の奥に茶室があった。前日の1月25日、ここに近衛、元首相の岡田啓介と米内光政、そして仁和寺の門跡、岡本慈航がひそかに集まり、戦争終結をめぐる会談が開かれた。

近衛は腹案を話した。「降伏によって、連合国が陛下の責任を追及して来たらどうするかだが、万一の時は先例にならって陛下を仁和寺にお迎えし、落飾(出家)を願ってはいかがかと考えている」(『天皇家の密使たち』)

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