「余ったパンを捨てるのをやめた」超人気パン屋ドリアン・店主の人生をガラリと変えた"モンゴルの友人からの素朴なひとこと"

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現在のパンづくりの主流であるイースト菌はあるにはありましたが、まだ一般的に入手できない戦後すぐの時代ですから、麹を使う酒種と残り生地で、パンを膨らませて焼いていたそうです。

甘納豆は好調だったのですが、祖父は40代の若さで、交通事故で他界してしまいます。広島の大きなお祭り「えびす講」で甘納豆を売りに行った帰り道、バイクで走っていたら、街灯のない暗い夜道にトラックが止まっていて、それに気づけずに衝突してしまったのでした。

長男だった父はそのとき、まだ高校生でした。

パン部門を引き継いだ父

迷ったあげく、父は店を継ぐことを決意しました。当時、人気絶頂だった甘納豆部門は、祖父の弟が引き継ぎ、父はまあまあなほうのパン部門を引き継いだのです。

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時代が進むにつれて、甘さ離れが進んでいき、甘納豆屋は傾いていきました。甘納豆以外にも甘い食品が巷に溢れるようになったからでもあります。

逆に、パンは人々の生活が洋風になるに従い、どんどん人気商品になっていきました。

父が店を継いだ頃のパン屋は今とは違い、販売する店舗はなく、工房で焼いたパンを八百屋さんに配達し、八百屋さんの店頭で売ってもらい、集金するという形態でした。今のように店先で売るという形態自体がまだない時代でした。

父がパン屋をはじめて数年経った1960年代のはじめ頃、大阪にはじめてのウィンドベーカリー(工房の店先でパンを売る店)ができました。それを見に行った父は衝撃を受けて、自分でもやってみようと、広島ではじめてウィンドベーカリーを開いたのです。

すぐに大盛況になり、店の前に行列ができるようになりました。

その頃から高度経済成長がはじまり、パンも種類が増えていき、お店は大忙しになり、店員さんも増えて、ワイワイとやっていたのです。

田村 陽至 ブーランジェリー・ドリアン店主

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たむら ようじ / Yoji Tamura

1976年広島県生まれ。祖父の代から70年続くパン屋の3代目。大学で環境問題を勉強。卒業後、北海道や沖縄で山・自然ガイド、環境教育について修業。その後、2年間モンゴルに滞在しつつ遊牧民ホームステイなどを企画。帰国後の2004年、パン屋を継承した。2012年には1年半休業してヨーロッパで修業し、店をリニューアル。2015年秋から一つもパンを捨てていない「捨てないパン屋」。研修生、見学者、コーチング生の夢を応援するのが趣味。2018年『捨てないパン屋』(清流出版)出版。2020年、岡山県蒜山に移住、1町の田んぼで無肥料無農薬の米作りもしている。

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