尼崎と宝塚結ぶ「幻の鉄道」なぜ実現しなかったか 兵庫県道「尼宝線」実は線路の予定地、今も残る跡
島は線路敷が完成した部分を自動車専用道としてバスの運行を立案。これを受けて尼宝電鉄は1929年7月25日、尼崎―宝塚間でのバスの営業計画を申請した。線路敷にバスをそのまま走らせることは認められず、線路敷を道路に改築することを改めて申請。1931年2月26日に道路敷設許可を受けた。
しかし線路敷を舗装したものの、バス車両を購入する資金の算段はつかなかった。こうして尼宝電鉄は翌1932年11月2日に鉄道計画を廃止し、そのうえで11月18日には阪神バスの起源である阪神国道自動車(阪国バス)に吸収合併されて消滅。12月25日に自動車専用道が開通し、阪国バスによる営業運行が始まった。
それから10年近く過ぎた1942年4月2日、専用道は兵庫県が買収して一般道に変わる。これが現在の兵庫県道42号だ。尼崎―宝塚間を結ぶバスは引き続き運行され、現在は阪神バスが運行している。なお、阪神電鉄が計画した出屋敷―今津間は一部整備されて同社の尼崎海岸線と甲子園線になったが、1975年までに廃止された。

阪急伊丹線の延伸計画も消滅
ちなみに、阪急電鉄も伊丹線の延伸部になる区間の工事に取りかかることはなかった。尼宝電鉄の消滅を受け、対抗策としての意味合いが薄れたためだろう。ただ「バスの宝塚乗り入れは認めるが鉄道は許さない」と牽制する意図があったのか、鉄道法規上は計画を維持。戦後の1968年に阪急伊丹駅を高架化した際も、延伸できる構造で整備している。
しかし1995年の阪神・淡路大震災で伊丹駅が倒壊。1998年に同駅が再建された際は線路の終端部をふさぐようにして駅ビルが整備され、延伸できない構造になった。そして持株会社制に移行する直前の2005年2月23日、鉄道法規上も伊丹線延伸部の計画を放棄した。

4月1日の持株会社化では阪急電鉄(旧)が阪急ホールディングスに改称し、鉄道事業は吸収分割により阪急電鉄(新)に引き継がせている。この場合、伊丹線延伸の鉄道計画も旧会社から新会社に引き継がせる手続きが必要になるが、戦前に比べれば阪神電鉄との対立関係は弱まっていたし、もはや計画を維持する必要はないと判断したのだろう。
それからほどなくして、いわゆる「村上ファンド」による阪神株の大量取得が明るみになり、対抗策として阪急との経営統合が浮上した。翌2006年10月1日、阪急ホールディングスが阪急阪神ホールディングスに改称。阪神電鉄を傘下に収める。もし伊丹線延伸部の計画を牽制という意味合いで維持していたら、その手続きは無駄になっていたわけだ。
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