スポーツ推薦を受けるには競技の実績が必要であるため、インターハイに出なければなりません。高校3年生のときはインターハイが地元の愛知県開催だったため、体重別個人戦に各階級2人ずつ枠がありましたが、増田さんは「前年までの予選成績からなんとなくいける」と思っていたところ、投げられて一本負けし、出場することができませんでした。結局その相手がインターハイに出場しました。
「なんとなくではダメなんです。このときそれがはっきりわかりました。絶対にやり遂げるという信念がないと目標はかなわない」
柔道界は層が非常に厚いため、この先どれだけやっても追いつかないだろうと、増田さんはこの敗戦を機に、自分に才能がないことを認めざるをえませんでした。
「七帝柔道」との出会い
それで当時「柔道なんてやっても俺はだめだ」と、ものすごく落ち込んで過ごしていた増田さん。そのときに思い出したのが寝技中心の「七帝柔道」でした。
のちに自伝的小説『七帝柔道記』でも描かれる、北海道大学、東北大学、東京大学、名古屋大学、京都大学、大阪大学、九州大学の旧帝国大学7校の柔道部の間で行われている、一般の柔道とはルールの異なる寝技の柔道。
戦前から旧制高校や帝国大学で受け継がれてきたもので、多くの寝技の新技が開発されて、現在のブラジリアン柔術や総合格闘技にも影響を与えている歴史的な柔道です。15人vs15人の大人数の団体戦であることも魅力です。
「当時、名古屋大学の柔道部は、ほかの旧帝国大学と対戦する『七帝戦』で勝つために人材を求め、愛知県の進学校を集めて『名古屋大学杯』を開催していました。旭丘の他に東海高校・滝高校などの15校くらいの柔道部が集まっていました。
高校対抗団体戦トーナメントの後、名古屋大の学生と乱取り(試合形式で全力で戦ういわゆるスパーリング)したのですが、名大の選手は組むと、いきなり自分から畳に寝るんですよ。そして下から脚や腕をからめてきてワニみたいに寝技地獄に引きずりこんでくる。ものすごく強くて絞め技や関節技でボコボコにされました。
『なんだ、この柔道は?』とびっくり仰天ですよ。
でもそこで名古屋大の学生に言われたことが印象に残ったのです。『投技には生まれつきの才能や運動神経が必要だ。でも寝技は才能ではなく練習量なんだ。努力は裏切らない。技術を研究して努力して練習すれば誰でも必ず強くなれる』と」
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