自動車業界の「カリスマ」鈴木修氏が残した伝説 貫いた「生涯現役」、軽を育てインド市場を開拓
「あのー、企業経営者というのは『これで一段落』ということを考えていないと思いますよ。私も例外ではありません。チャレンジするということ、企業経営を社会のためにやっていくということは、いつまで経っても変わらないんじゃないでしょうかね」
スズキがトヨタ自動車との提携交渉開始を発表した2016年10月の記者会見でのこと。「最大の課題としていた提携にメドを付けた。これを機にもう少し社長を前面に押し立てる考えは」と尋ねると、鈴木修会長(当時)はそう答えた。
近年、企業による記者会見で、経営者は安全優先、公式見解の発言に終始することが少なくない。そうした中、「修節」は率直でかつ独特の味があった。修氏とのやり取りを筆者は楽しみにしていた。
修氏が48歳でスズキの社長に就任したのは1978年。日本車メーカーはどこも米国現地生産を始めていない時代。1978年度のスズキの売上高は3232億円で、国内最小乗用車メーカーの域を出ていなかった。
それが会長退任時には売上高が約10倍、直近では約17倍になった。国内販売台数はトヨタに次ぐ2位、世界では9位。躍進の立役者はまぎれもなく修氏である。
超低価格の「アルト」が大ヒット
その功績は数知れないが、とりわけ大きいのは、日本の軽自動車を守り育ててきたことと、インド市場の開拓だ。
1979年発売の「アルト」。「エンジンを取ったらどうだ」(修氏)というほどの徹底的なコスト削減で、既存の軽より2割以上安い価格の47万円を実現し大ヒット。陰りがあった軽人気が復活するきっかけとなった。
その後も「排ガス規制や軽規格の見直しが浮上した際など、先頭に立って大物政治家にロビー活動を行うなどして軽を守った」(田村実・スズキ元副社長)。今や軽は国内自動車販売台数の約4割を占めるまでに成長。修氏がいなかったら、日本の道路事情に合った軽は消えていたかもしれない。
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