就職を決意しても、どこの会社からも内定はもらえなかった。夢を諦めて普通に働くという方向転換も許されなかった。卒業後、アルバイトを続けながらオペラ団体の研究生になった。そこでも自分なりに頑張ったが、35歳になっても準団員にすら昇格できなかった。一方、同級生だった成績最上位だった令嬢は、プロになって華やかな舞台に立っている。比べてはいけないとわかっていても、比べてしまう。苦しかった。
実家の子ども部屋にいつまでも住んでいるのは、両親に申し訳ない。でも、自立をしたくても非正規雇用の収入は安い。とても一人暮らしを支えられる収入は得ることはできない。歌手にも正社員にもなれないならば、結婚をしようと思ったこともある。ずっと誰か現れないか願っていたが、誰も現れなかった。35歳のときにすべてを諦めて、団体の研究生も辞めた。
「音楽しかない人間になってしまった」
「私はずっと夢見ているのだと思う。オペラ界には未練はなくなったけど、それと同時に音大に入ったことに対する後悔が生まれた。オペラにかかわったすべてが間違っていたというか、そういう後悔がある。できればやり直したい」
江美子さんは唇を噛みながら、そう言いだした。プロの歌手になれるのは本当に一握りだけであり、十分に想像できる結末である。しかし、在学中に精神疾患になり、就職活動に失敗して、誰かと結婚することもできなかった。人生の分岐点、方向転換のチャンスをすべて逃している。諦めた夢に中途半端にしがみつくしかできないまま42歳を迎えている。
「音楽をまだ続けているのは、それしかないから。音楽しかない人間になってしまった。後悔しているか、していないかっていえば、大学に入ったことは後悔している。夢なんか見ないで、高卒でそのまま就職すれば、こんなことにはならなかった。そうすればきっと普通の人生を送れたのにって」
江美子さんの望む普通の人生とは健康で正社員として働いて、女性の平均賃金程度を稼ぎ、親に頼ることなく自立することである。「その大きな壁は乗り越えられそうにありません。情けないけど、40歳をすぎて普通に生きることも諦めつつあります。だから後悔ばかり」という。
いまは月3万円の月謝を払って、ボサノバのボーカルとギター教室に通っている。江美子さんは生徒のなかでは、圧倒的な音楽知識と技術があり、先日の発表会ではトリを務めた。音楽って楽しい、初めてそう思うことができたが、“私の人生、こんなはずじゃなかった”というモヤがかった心の中の憂鬱は晴れないままだ。
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