仕事は内勤の事務員をしている。どんなに忙しくとも障害者雇用の江美子さんだけは16時で終業し、タイムカードを押して帰宅となる。障害者雇用なので勤務時間は短く、賃金は安い。手取り12万円という自立できない低賃金も、障害を抱えてしまったので仕方がないと思っている。
気づけば40歳を超えてしまった。子どもの頃に想像していた明るい未来はなにもなかった。両親に面倒をみてもらいながら、実家と会社を往復して、たまにレッスンに行く。大学を卒業してから20年間、それだけの生活を繰り返している。子どもの頃から結婚願望は強かったが、大きな夢を見たことが足かせとなって、そのささやかな希望すら叶うことはなかった。いまはなにもかも諦めることで精神の均衡をたもっている。でも、いつも心に引っかかるのは「あのとき、歌手になりたい夢を見なかったら、もっと幸せになれたかもしれないのに」という後悔だった。
無理をして私立の音大に進学
「プロのオペラ歌手を志したのは、高校2年生のときでした。芸術鑑賞教室で見たときに素敵だなって思った。中学生のときから市民オペラの子役はやっていて、歌唱テストはいつも高得点でした。オペラはソプラノ、メゾ、アルトで分かれる。私はソプラノでした。両親から何度も高額な学費を払うのは難しいって言われたのに、私がわがままを言ってゴリ押しで私立の音大に進学したんです」
出身の音楽大学の学費を調べると、授業料は年間200万円を超えている。父親は一部上場企業のサラリーマンだったが、とても二つ返事で支払える金額ではなかった。両親からは奨学金を借りることとアルバイトをすることを条件として出されて音楽大学に進学することになった。
「大学の同じ学科の人はみんなプロを目指すのだけど、プロになれるのは学年で1人か2人。同級生はみんな医者とか経営者の令嬢で、桁が違うお金持ちでした。3000万円のバイオリンを買っちゃったとか、そんな世界でした。バイトをしているのは私くらい。バイトと音楽を必死に頑張っても成績は中の上、上位はみんな裕福な人たち。大学で埋めようのない格差を初めて知りました」
成績上位者に少しでも近づくには、課外レッスンが必須だった。一般家庭の両親では学費を負担するだけで精一杯だ。もっとお金が必要とは言えないのでアルバイトをした。平日はコンビニで働き、土日は聖歌隊、演歌歌手のバックコーラス、ラウンジでのピアノ弾きをした。
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