限界集落の廃校で絵を描き続ける85歳彼の人生 活動資金は年金・絵の売り上げ・入館料
「とにかく私は自分が納得できる絵を描きたくて、そればかり考えていました。油絵で評価はされてたんですけど、家も売って仕事も辞めて、着の身着のままで中国に渡ったんです」
旅の目的は、芸術を再発見して絵を創作すること。寝袋を背負い、河原などで寝る野宿生活をしながら、風景を眺めたり、美術館を訪問する旅路を歩み続けた。
中国・安徽省にある黄山では、水墨画の世界そのままの雄大な光景に惚れ込み、何度も黄山に登っては山頂のホテルに数カ月泊まり込んだ。ホテルでも、時には結核で入院した病室でさえも、朝から晩まで筆を握り続けた。
いかなる環境下でも自分を追い込み、常に芸術の探究に挑み続ける日々。
黄山をきっかけに描き続けた墨画は評価され、中国のメディアからたびたび取材を受けるほか、北京の中国美術館では日本人初の個展を開催するまでになった。
中国に単身渡り、気づけば18年の歳月が流れていた頃、私生活では翻訳をしてくれていた中国人女性と結婚。中国で生涯を終えることを考えていたものの、妻の助言から、90を過ぎた母の面倒を見るため日本に帰国することになった。
瑞牆山の麓を人生の集大成の地に
日本に帰国した後、工藤さんは人生の集大成として臨める場所を探していた。自分が納得する絵を描き続けるために広い場所が必要だったのだ。
そして、中国で黄山の風景に惚れ込んだように、創作意欲を刺激する雄大な山を望む環境が好ましかった。
富士山が眺める富士吉田市などいくつか候補があったものの、同じ山梨県内の須玉町(現北杜市)から見える瑞牆山の風景が工藤さんの心を掴んだ。
日本百名山に選定され、日々多くの登山客が訪れる標高2230メートルの瑞牆山。黄山を彷彿とさせる花崗岩で形成された荒々しい山容に感銘と懐かしさを覚えた。
須玉町(現北杜市)の増富地区には増富中学校があったが、ちょうど2004年に廃校になったことも重なり、借り受ける形で活動の拠点とした。
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