「憎悪」と「嫉妬」は、どちらが"よりネガティブ"か 「プラスの効果」がまったく期待できない感情

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普通の人間は彼らと同じ土俵にいないので、憧れはあったとしても嫉妬にはなりません。交際相手が「自分に向けるべき愛情」を人に向けていると思うから、また競争相手が「自分が得るはずだったポスト」に先についたから、嫉妬するわけです。

もし出世競争で負けても、相手を真のライバルだと思っていたら、そこには尊敬があるので嫉妬の対象にはなりません。自分もさらに精進しようと思うだけです。嫉妬は、感情の中でもっともプラスの作用を生まないものです。

ある意味、憎悪より性質が悪いのが嫉妬

憧れや羨望は「自分もあの人のようになりたい」となり、能動的な行動につながる場合があります。しかし嫉妬は、「不当にも奪われている」という感覚で止まってしまい、能動的な行動になりません。ある意味、憎悪より性質(たち)が悪いと言えるでしょう。

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憎悪は人を行動に駆り立てるモチベーションになり、場合によってはいい結果をもたらすかもしれませんが、嫉妬は人を疲弊させるだけです。そこからリアクションしても、プラス効果はまったく期待できません。

嫉妬に飲み込まれているときには、そこに、「勘違いした所有欲」があると気づく必要があります。そうしないと、嫉妬から解放されることはありません。誰かに嫉妬したときは、その状況が本当に不当なのかと考えてみてください。たいていの場合は、実力どおりのことが起きているだけです。

「そのポストには自分がふさわしい」と考えていたかもしれないが、人事課はそうではなかった。「彼女は自分を好きになるべきだ」と思っていたかもしれないが、彼女自身は別の相手のほうがよかった。

本人は不当だと思っていても、冷静に見てみれば不当でもない。自分の認識自体に錯覚があっただけ。嫉妬から解放されるには、それが理解できるかどうかです。

そこに気づけば、嫉妬は無駄な感情だと一発でわかります。これが嫉妬の呪縛から逃れる第一歩です。

南 直哉 禅僧

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みなみ じきさい / Jikisai Minami

1958年、長野県生まれ。青森県恐山菩提寺院代(住職代理)、福井県霊泉寺住職。早稲田大学第一文学部卒業後、大手百貨店勤務を経て、1984年に曹洞宗で出家得度。同年から曹洞宗・永平寺で約20年の修行生活をおくる。『恐山 死者のいる場所』『超越と実存 「無常」をめぐる仏教史』(新潮社)、『善の根拠』『仏教入門』(講談社)、『死ぬ練習』(宝島社)など、著書多数。

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