苦境にあった氷河期世代が互いに罵り合う悲哀 団塊の世代のように束になって発言ができない
圧倒的な買い手市場の中でなんとかつかんだ正社員の座。デフレで転職も容易ではない中、上にはバブル世代の大量入社組がいて先輩たちのように出世もできず、下も入ってこないためにいつまで経っても下働き。堪え難きを堪え、忍び難きを忍んで歩んできた会社員人生。誰も褒めてはくれないし、誰も私の気持ちをわかってはくれない。だが、私は私なりに頑張ってきたのだ。努力してきたのだ。その分報われてしかるべきだ。上手くいかなかったのは「自己責任」なのだ……。
前述の伊藤議員の演説に「オレ全部受かった」といった御仁がもし同世代であっても私はまったく驚きません。そんな方には相当な運が味方したに違いありませんが、そういった人に限って「運も実力のうち」と嘯いたり、心底自力だったと信じ切っていたりします。
ですが、あの時代、運かコネがなければ職にありつけない、令和の今からは信じられないような厳しさが世間に満ち満ちていました。そして、その境遇の絶望的なまでの差が、氷河期世代の団結を阻み続けてきました。
今もそうです。この世代は1学年で100万人を優に超える人口を抱えているのにもかかわらず、親世代である団塊の世代のように塊となって発言力を高めることができません。いつまでも焦点の合わない歪んだレンズのように、常に光が拡散して同世代間で罵り合ってしまいます。
「勝ち組」のメンタリティが世代間にも軋轢を生む
さらに、世代間にも軋轢を生む存在になりつつあります。これは特に、氷河期世代を正社員として生き抜いてきた、相対的には「勝ち組」に分類されるような人の一部に次のようなメンタリティが生まれていることに起因します。
「私でもできたのだ。君らもスキルを磨いて強く生きるのだ」「なぜこんなこともできない。私の時代ならとっくにクビになっていたぞ」「そんなことで弱音を吐いてどうする?」そんな気持ちで10歳、20歳下の世代に接すれば、それは指導ではなくパワハラですよと糾弾される時代です。
結果として、氷河期世代を生き抜いた人たちはそのスキルを評価されるよりも、昭和の体質を残す「老害」として扱われてしまうのです。もう少しマイルドですが、これは私の実体験でもあります。我々が潜り抜けてきたことを今行ってしまうと、それだけでアウト。なんとも切ない話ですが、これが現実ということなのでしょう。
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