そして、道長・倫子夫妻の間に生まれた4人の娘(彰子・妍子・威子・嬉子)はみな、天皇や皇太子に嫁ぐことになる。
長女の彰子は一条天皇(第66代)、次女の妍子は三条天皇(第67代) 、続いて威子は後一条天皇(第68代)に入内し、さらに嬉子は皇太子・敦良親王(のちの後朱雀天皇〔第69代〕)のもとに入内している。
嬉子については夫がまだ皇太子の頃に亡くなってしまったので立后はしていないが、彰子・妍子・威子の3人については天皇の后となった。その特異な状況について藤原実資が「一家立三后、未曽有なり」と表現し、後世でも語り草になっている。
「一家立三后」はもちろん、道長の政治力があったからこそ成し得たことだ。だが、この時代に無事に出産し続けた倫子の貢献度もはかりしれないだろう。
いや、むしろ、この夫婦の歩みをみれば、倫子なしには道長が大きく飛躍することはなかったようにさえ思えてくるのだ。
家格は道長より上だった源倫子
源倫子が道長と結婚したのは、永延元(987)年12月16日のこと。倫子の父である左大臣の源雅信は、当初この結婚に乗り気ではなかったらしい。
それも無理はない。雅信の父、つまり、倫子にとっての父方の祖父が敦実親王であり、雅信の母、つまり、倫子にとっての父方の祖母が藤原時平の娘である。
さらにさかのぼれば、雅信の祖父であり、倫子にとっての父方の曾祖父は宇多天皇だ。その妻、つまり、雅信の祖母であり、倫子にとっては父方の曾祖母にあたるのは、醍醐天皇の生母・藤原胤子である。
一方、藤原兼家の5男として生まれた道長は、右大臣の藤原師輔を祖父に持ち、関白の藤原忠平を曾祖父に持つ。道長自身の位としても従三位、左少将と、駆け出しの公卿にすぎなかった。
娘を「后がね(后の候補者)」として育ててきた倫子の父・雅信からすれば、家格に劣る道長のもとに嫁がせたくはなかっただろう。道長のことを「くちばしの黄色い青二才」とまで言っている。
それでも、道長が倫子と結婚できたのは、倫子の母・藤原穆子(ぼくし)がこの結婚を後押ししたからだ。穆子は賀茂祭や行列などで、道長の姿をみて「この君ただならず見ゆる君なり」と感心していたという。
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