いずれの逸話も、まだ自身が身ごもる前のことであり、周囲から世継ぎのプレッシャーをかけられるなかでも、常に自分以外の誰かを気にかける、彰子の思いやり深さがよく伝わってくる。
その一方で『紫式部日記』では、式部から漢文を教えてもらいたがる彰子の様子が描かれている。彰子は唐の詩人・白居易の『白氏文集』をリクエストしたという。幼少期から漢文に触れて、側近からも「好文の賢皇」と評された一条天皇に、少しでも気にかけてもらいたいと、彰子は密かに日々心を砕いていたのだろう。
そんな彰子だから、24歳で夫の一条天皇を亡くしたときの悲しみは深かった。寛弘8(1011)年の出来事であり、一条天皇は32歳でその生涯を閉じている。
藤原行成の『権記』によると、一条天皇がいまわの際で、力を振り絞って最後に詠んだのは、こんな和歌だった。
「露の身の 風の宿りに君を置きて 塵を出でぬる 事ぞ悲しき」
この「君」とは誰のことなのか。
行成は「成仏し切れない定子を置いて、自分だけが成仏するのは悲しい」と解釈したようだ。
一方、道長の日記『御堂関白記』では「事ぞ悲しき」のところが「ことをこそ思へ」となっており、道長は最期にそばにいたのが彰子だったことから「一条天皇は彰子を置いていくことが心残りだった」と解釈している。
「亡き定子を愛する一条天皇」をも愛した彰子自身は、どちらでもよかったのではないだろうか。彰子は、親の死を理解していない敦成親王のことが、ただただ不憫だったようだ。
親王が撫子(ナデシコ)の花を取ると、その姿から、彰子はこんな歌を詠んだ。
「見るままに 露ぞこぼるるおくれにし 心も知らぬ 撫子の花」
(いとしい我が子の姿を見るにつけても涙の露がこぼれる。後に残されたことも知らないで、撫子の花を手にした愛しい子よ)
その後、板敷を取り除いて土間とした土殿に移った彰子。素服を身にまとい、喪に服している。
【参考文献】
山本利達校注『新潮日本古典集成〈新装版〉 紫式部日記 紫式部集』(新潮社)
『藤原道長「御堂関白記」全現代語訳』(倉本一宏訳、講談社学術文庫)
『藤原行成「権記」全現代語訳』(倉本一宏訳、講談社学術文庫)
倉本一宏編『現代語訳 小右記』(吉川弘文館)
源顕兼編、伊東玉美訳『古事談』 (ちくま学芸文庫)
桑原博史解説『新潮日本古典集成〈新装版〉 無名草子』 (新潮社)
今井源衛『紫式部』(吉川弘文館)
倉本一宏『紫式部と藤原道長』(講談社現代新書)
関幸彦『藤原道長と紫式部 「貴族道」と「女房」の平安王朝』 (朝日新書)
繁田信一『殴り合う貴族たち』(柏書房)
倉本一宏『藤原伊周・隆家』(ミネルヴァ書房)
真山知幸『偉人名言迷言事典』(笠間書院)
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