一条天皇の最期「定子と彰子」誰に想いを残したか 死ぬ間際に読んだ和歌にある「君」は誰なのか

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寛弘5(1008)年9月11日、21歳の彰子は一条天皇との間に第2皇子として、敦成親王をもうける。彰子が入内してから、約9年の月日が経っていた。父の道長と母の倫子が、歓喜したことは言うまでもない。

やがて一条天皇が重い病に伏せると、皇太子の居貞親王への譲位が行われるなかで、おのずと「誰が次の皇太子になるか」に注目が集まった。

道長は敦成親王を皇位継承者にするべく、行成を通じて一条天皇を説得。一条天皇としては、亡き定子が生んだ第1皇子の敦康親王を後継者にしたかったが、押し切られるかたちとなった。

光る君へ 大河ドラマ 一条天皇 定子 彰子
一条天皇の陵(写真: クロチャン / PIXTA)

これに怒ったのが、意外にも彰子だった。一条天皇の意向に従って、敦康親王こそ次の皇太子にすべきだと、彰子は考えていたようだ。養母としてともに月日を過ごした彰子からしてみれば、我が子が生まれたことで、敦康親王が追いやられるような事態は耐えがたかったのだろう。

道長にはとてもではないが、受け入れがたく、かつ、理解できない娘の要望だったに違いない。従来の方針通り、彰子の子であり、自分の孫である敦成親王を皇太子に据えさせた。彰子はそんな父・道長のことを「怨み奉られた」(『権記』)という。

随所に見られた彰子の細やかな心遣い

自分の子が厚遇されることを誰もが願ったこの時代に、彰子の思いやり深さは、特筆すべきことだろう。

彰子がどんな女性だったのか。それがわかる史料は乏しい。だが、残した和歌からも、柔らかな性格が伝わってくる。

彰子の出産から遡って3年前の寛弘2(1005)年10月に、敦康親王の石山詣が行われると、父の道長や母の倫子、祖母の穆子、妹の姸子が同行することになった。当時、17歳だった彰子は妹の姸子にあてて、こんな和歌を贈っている。

「人をのみ 思ひやるまにこのごろは 関に心の 越えぬ日ぞなき」

(あなたのことばかりに思いを馳せるうちに、心が逢坂の関を越えていかない日はないのです)

それから2年後の寛弘4(1007)年に、母の倫子が44歳で末妹の嬉子を出産すると、彰子は、子の将来の多幸と産婦の無病息災を祈る儀式「産養」を主催。白い織物衣と綾の産着などを母に贈って、道長を感動させた。

「中宮よりこのような贈物があるのは、めったにないことだ。かえって面目が施された。未だ家から立たれた皇后が、母のためにこのようなことをなさったことはない。百年来、聞いたことがない。以前の人は、親の老後に立后されたのである」

(『藤原道長「御堂関白記」全現代語訳』倉本一宏訳、講談社学術文庫より)

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