それから10年弱の時が流れて、彰子もまた一条天皇のもとに入内して、6日後に女御宣旨が下される。長保元(999)年11月7日のことだ。奇しくもこの日の早朝に、一条天皇と定子との間に、第1皇子となる敦康親王が生まれている。
このとき一条天皇は20歳、定子は23歳。一方、彰子は12歳にすぎず、定子が生んだ敦康親王の養母になるとは、本人はもちろん、誰も想像しなかっただろう。
養母として敦康親王を大切にした
一条天皇のもとに第1皇子が生まれたのは、喜ばしいことだったが、宮中には手放しで喜べない事情があった。
というのも、定子は兄・伊周の不祥事で出家した身だった。それにもかかわらず、定子を職御曹司(しきのみぞうし)にわざわざ移してまで、一条天皇が寵愛したことについて、宮中では不穏な空気が流れていた。藤原実資は『小右記』で「はなはだ稀有のことである」と苦言を呈している。ほかの公卿たちも同じ気持ちだったことだろう。
そんな声を物ともせず、一条天皇は定子との間に、1男2女をもうけることになる。だが、第3子となる次女を出産したのち、定子は体調を崩して病死してしまう。
道長からすれば、娘の彰子が一条天皇との間に子を成してくれるのがいちばんだが、現時点では第1皇子・敦康親王をバックアップするほかない。自身は後見役を担いながら、彰子を敦康親王の養母とすることで、娘に朝廷での影響力を持たせようとした。
一方の彰子からすれば、14歳にして養母として定子の忘れ形見を支えながら、定子を忘れられない一条天皇の気を引いて、世継ぎを生む……という、なんとも複雑な役割を担うことになった。
父から背負わされた運命に、何もかも嫌になる夜もあったのではないだろうか。紫式部がいうところの「あまりものづつみせさせ給へる御心」(あまりにも控えめな性格)である彰子は、己の感情を露わにするタイプではないため、その胸中はわからない。
ただ一ついえることは、彰子にとって幼き敦康親王は、かけがえのない存在になったということだ。自身に子どもが生まれてからの彰子の態度に、そのことがよく表れている。
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