維新の党「仮面夫婦」の破局は仕組まれていた 中央vs地方は、かつての公明党とも類似
実際はそうではなかった。
橋下氏は早速28日夜に「大阪維新の会で国政をやりたい」と述べ、④を撤回。彼の動きに「大阪系」の多くが合流すると見られている。
そもそも橋下氏らは「維新の党」にさほど未練があるわけではない。党名は昨年8月に日本維新の会と結いの党が合併した時、妥協して名付けたものだ。地方議員のための「大阪維新の会」を残したのも、何か起こった時のリスク分散と見てよい。その例は過去にもあるからだ。
それは公明党だ。同党は1994年12月に新進党が結党した時、新進党への合流組と地方議員及び一部の参院議員で構成する公明の2つに分かれている。現行の小選挙区比例代表並立制が導入された1996年の衆院選で同党系の議員数を減らしたものの、現在まで一定の議席数を維持できているのは、公明の存在ゆえに党としてのアイデンティティを失わなかったからと評価できる。
ちなみに公明の代表は東京都議だった藤井富雄氏が務めていた。藤井氏は創価学会の黎明期を支えた人物で、1955年から2005年まで50年にわたって練馬区議と都議を務め、「国会議員よりはるかに実力がある」と言われていた。
柿沢問題は「邪魔者」を排除する材料だった?
だが、大阪維新の会の実質上のオーナーである橋下氏の党内の影響力は、藤井氏が公明で保持していたよりもはるかに大きいものといえる。
思うに橋下氏と松井氏は、年内にこうした形になるよう、絵を描いていたのではないだろうか。8月19日に関西維新の会を結成し、実質的に大阪維新の会の下部組織としたのも、その準備ではなかったか。さらにいえばそのひとつの過程として、柿沢氏の問題が埋め込まれたのではないか。要するに、江田憲司氏、松野氏、柿沢氏という「邪魔者」を排除するための材料として、今回の問題は利用されたのではないだろうか。
28日夜に開かれた大阪維新の会の全体会合で、橋下氏が「党を割らないが、党を入れ替えようと思う」と述べたのも、その証左だろう。彼にとって、国会議員は誰もが「駒」なのである。
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