江戸時代の「人気職業」はいくら稼いでいたのか 「千両役者」は寛政の改革を機に姿を消した
しかし、次第に営利目的となり、有名力士が登場しても相撲を取らなかったり、体を見せるだけの力士が登場したりと、ショーや見世物的なものとなっていった。
力士は大名のお抱え者が多く、藩から禄をもらっていた。天明から寛政年間には大名の参勤交代とともに江戸に人気力士が集結し、江戸相撲は大人気となった。松江藩の雷電為右衛門、仙台藩の谷風梶之助、久留米藩の小野川喜三郎などが人気力士だった。晴天8日の興行で50両(約1500万円)から80両(約1800万円)も稼いだという。
文字どおり「ピンキリ」だった遊女の揚代
吉原は江戸唯一の幕府公認の遊郭である。江戸の男の望みはお伊勢参りと遊郭で遊ぶことだと言われるほど、男たちにとって魅惑的な場所だった。
はじめは日本橋葺屋町の外れにあったが、明暦3(1657)年、大火の後に、浅草・浅草寺北に移された。客の大半は武士だったが、次第に町人主体となっていく。また、参勤交代で江戸に上った地方の武士たちにとっても、1度は行ってみたい場所となっていた。
客が高級遊女の花魁を呼び、幇間や芸者も一緒に酒や肴を振る舞って豪遊すると、一晩で現代の価格にして1000万円もかかったという。かの紀伊國屋文左衛門には、吉原大門を閉めて貸し切りにし、千両箱数個を使い切ったという伝説がある。また、江戸の材木商・奈良屋茂左衛門もこれに負けじと散財したそうだ。
吉原で働く遊女は、時代によって等級が変わった。元禄・享保期には、太夫、格子女郎、散茶女郎、梅茶女郎(局女郎)、切見世女郎(局女郎)の5等級があった。太夫、格子のような高級遊女は享保頃から花魁と呼ばれる。
しかし、明和の頃に太夫、格子が絶え、散茶女郎が「呼出」、「昼三」、「附回」の3等級となり、この3等級の遊女が花魁と呼ばれるようになった。下級遊女も整理され、「座敷持」、「部屋持」、「番頭新造」、「振袖新造」、「禿」といったように分けられた。客を取るのは部屋持以上の遊女である。
揚代は呼出で金1両1分(約37万5000円)、昼三で金3分(約22万5000円)、座敷持で金2分(約15万円)、部屋持が金1分(約7万5000円)だった。部屋持以下では番頭新造、振袖新造が金2朱(約3万7500円)、少女の禿は無給で花魁の身の回りの世話をした。禿はその後、新造となり、さらに修業を積んで一人前の遊女となった。
記事をマイページに保存
できます。
無料会員登録はこちら
ログインはこちら
印刷ページの表示はログインが必要です。
無料会員登録はこちら
ログインはこちら
無料会員登録はこちら
ログインはこちら