江戸時代の「人気職業」はいくら稼いでいたのか 「千両役者」は寛政の改革を機に姿を消した

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また、髪結いを専門とする床屋は3代将軍・家光の頃に誕生した。多くは湯上がり客を狙って、湯屋の近くに開業したが、開店費用は現代に換算して5000万円近くもした。客の頭(月代)を剃り、髷を結い直し、眉の手入れや耳掃除などをして相場は32文、約2400円。月収約60万円という高額所得者だった。

江戸時代の商人は、特定の店を構えないで商品を売り歩く行商人が多かった。なかでも天秤棒をかついで売り歩く棒手振りは、江戸庶民の生活になくてはならない存在だった。野菜や魚、豆腐、漬物といった食品を毎日売り歩き、人々はその日食べる分だけを購入した。針や糊など日用品の販売や錠前直し、鏡磨きなどのサービス業を行う者もいた。

たとえば、棒手振りの1日は早朝、青物市場に行き商品を仕入れることから始まる。仕入れ用に借りたお金約700文から、大根などの野菜を購入。肩に食い込む天秤棒の重さに耐えながら、声を張り上げ野菜を売り歩く。日が傾くまで働いて稼ぎは500文程度。現代感覚で算出すると、3万7500円ほど。

米や味噌といった食費に家の家賃を差し引き、子どもに菓子でも買えば、手元に残るのは約200文。現在の価格にして1万5000円程度だ。借金の返済に充てたり、酒を飲んでしまったりすればあっという間になくなってしまう。江戸っ子は宵越しの銭は持たないというが、持てないというのが実情だったようだ。

歌舞伎界に「千両役者」は実在していた

「一日に千両の金が動く」と謳われたのが、日本橋の魚河岸、吉原、そして芝居町である。町奉行所の許可を得た中村座、市村座、森田座のいわゆる江戸三座は江戸歌舞伎の中心で、老若男女で賑わっていた。役者にもピンからキリまであり、給金にもかなりの差があった。

人気のある立役者のことを「千両役者」というが、安永7(1718)年、実際に中村仲蔵が森田座から1000両(約3億円)を受け取ったという。しかし、松平定信を登用した寛政の改革(1787-1793年)によって役者の1年間の給金が定められ、規制が実施された。

その結果、最高額は尾上菊五郎の500両(約1億5000万円)となる。次が坂東彦三郎450両(約1億3500万円)、尾上多見蔵400両(約1億2000万円)などと細かく取り決めが行われることとなり、「千両役者」は見られなくなった。

相撲は歌舞伎、吉原とともに人気を博した。もともと鎌倉、室町時代まで武術としての格闘技「武家相撲」だったが、江戸時代には勧進相撲として盛んになった。寺社建立や仏像修理などの費用集めのため、深川八幡宮で興行したのが、寺社奉行の許可を得た最初の相撲だったという。

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