江戸時代の「人気職業」はいくら稼いでいたのか 「千両役者」は寛政の改革を機に姿を消した

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火事が多かった江戸では、大工は引っ張りだこだったのである。賃金は現代感覚で換算すると、日給にして2万7000円、年収にして800万円近くにもなった。

職人中、大工は最も高収入で生活レベルも高い。女子には習い事をさせ、歌舞伎見物もしたようだが、家を持つ者は稀で、借家住まいが多かった。

そんな大工をはじめとする建築職人たちは、大火があるごとに賃金が上がり、江戸の60%が焼失した明暦の大火(1657年)後では、さらに暴騰した。そのため幕府は「上職人(腕のいい職人)」の賃金の上限を定めたのだった。この賃金の制限によって職人町は離散してしまう。

大工には及ばないが、畳職人や石材に細工をする「石切」は日給約1万5000円、大鋸で原木を挽き割り、造材にあたる「木挽」は日給約1万円だった。

しかし当然ながら、すぐに高収入を得られるわけではない。親方、職人、弟子という階級があり、親方は職人に仕事を供給する代わりに賃金の一部をピンハネした。弟子は一人前の職人になるまで、長年の奉公と修業が必要だったのである。

日本橋から吉原大門までの駕籠代は約3万7500円

幕府の公文書を運んだ飛脚を「継飛脚」といい、2人1組で、1人は「御用」と書いた高張提灯を掲げ、もう1人が文書を入れた籠を担いだ。

庶民の手紙などの書類や金銭、小荷物などの運輸も飛脚が担うようになった。所要時間や荷物の重さにより料金が違った。江戸市中の通信を請け負った町飛脚も登場した。

飛脚とともに江戸の町を走り回ったのは駕籠。当初、庶民が乗ることは禁じられていたが、しばらくして四つ手駕籠という簡素な町駕籠が出現した。現代の価格で日本橋から吉原大門までの約5㎞分が約3万7500円というかなりの高額であったが、駕籠で乗りつけるのが江戸っ子の見栄だったのだ。

現代では医者は高収入の代表で、平均年収は1000万円を超えるが、江戸ではどうだったのだろう。今のような医師資格はなく、法律上は誰でも医者になることができたというから、収入もさまざまだ。

幕府や藩に仕える医者と、町医に大別でき、さらに町医には町奉行から駕籠を使用する許可を得た乗物医者と、お供に薬箱を持たせて歩く徒歩医者がいた。

医者によって薬礼(治療や投薬に対して医者に払う代金)も違った。『江戸真砂六十帖』によると寛延年間には1両で300服相当、天保年間では120服相当だ。

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