女子アナが「男性の体臭批判でクビ」の皮肉な現実 「わざわざ言う必要があるのかには慎重に」

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両者をうまく見分けられる受け手は「知りたいのはそれじゃない」と断じることができるが、違いを認識できない人は、記者の感情ベースで書かれた文面も「事実の一環」だと捉えてしまう。そうして記者個人の発言が「社論」や「社風」だと感じられ、結果的に媒体社の企業体質まで問われることになってしまう。

「わざわざ言う必要があるのか」という皮肉な過去投稿

とはいえ、「アナウンサーや記者は個性を殺せ」と言っているのではない。それが持ち味になる場所で発揮すればいいのだ。

たとえばエース級の局アナは、自社制作の看板番組内で、個性を発揮していることが多い。ただ、それは個人ではなく、集団戦である。スタッフとの共同作業で、まさに「社風」をつくっていく。その観点に立つと、このところ人気アナが役員待遇に昇格する理由もよくわかる気がする。

あらゆる発言には、それに適した場がある。そして場合によっては、「言わないこと」も重要だ。ことメディアにおいては、ファクトが伝えられないのは問題だが、エモーションは必須条件ではない。

「『この発言で傷つく人はいないだろうか』という想像力を持ちながらも、自分の発言に責任を持てる(言葉を選べる)社会的な人間でありたい。思うことや感じることは自由でも、それをここでわざわざ言う必要があるのか、にはいつだって慎重になりたいなあ」

これは、とある人物によるSNS投稿だ。感じたことを、わざわざ言葉にする必要があるか。VOICEの発表文とも重なるような、言葉を重んじる人ゆえの至言に思えるが、この文面を投稿したのは、2021年10月3日の川口ゆりさんだった。

(画像:本人の公式Xより)

時が変われば、場所が変われば、考えも変わっていく。「約3年前の発言に責任を持てているか」と問われれば、筆者も変節している可能性がある。しかしながら、アーカイブが積み上げられていくSNS社会においては、いつ過去発言が掘り起こされてもおかしくない。

その時々の発言のみならず、「未来の誰かを傷つけないか」「未来の自分が裏切らないか」にまで配慮することが、今を生き抜く上では重要なスキルなのだろう。

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