宗谷線から日豊線まで、全国「峠越え」鉄路の記憶 勾配とカーブ続く「難所」に挑んだ機関車の力闘
黎明期の鉄道は、都市間を結ぶだけでなく「船につなぐ輸送手段」として、鉱山や山林などのある内陸部と港湾を結ぶために建設されることが多かった。日本の国土は山がちで、昔から主要街道には「峠越え」の苦労がつきまとい、それは鉄道の登場後も同じだった。
峠越えの鉄道は全国各地にあり、それらの区間では急勾配を克服するためのさまざまな苦労や工夫、そして機関車やそれを動かす鉄道員の力闘が見られた。各地の峠越えと、勾配を克服するため投入された機関車の歴史を振り返ってみたい。
日本の三大「峠越え」鉄道
日本の鉄道には昔から三大勾配区間と呼ばれる「峠越え」の鉄道がある。奥羽本線の「板谷峠」、信越本線の「碓氷峠」、山陽本線の「瀬野八越え」がそれだ。北から順に見ていこう。
板谷峠に鉄道が開通したのは明治中期の1899年のこと。奥羽山脈を横切って福島―米沢間を結ぶこのルートは、約22kmにわたり最大33.0‰(パーミル、1000m進んで33m上る)の急勾配が続き、赤岩・板谷・峠・大沢の連続する4駅はスイッチバックを余儀なくされた。また冬季は豪雪地帯でもあり、まさに難所だった。
蒸気機関車時代は、勾配区間向けの特殊設計のタンク式機関車4110形が活躍したことで知られた。1948年には新型の勾配用タンク機関車E10形も登場したが、翌1949年に直流電化された。電化後はEF15形電気機関車と、後に回生ブレーキを追加改造したEF16形が投入された。
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