京王新線「新宿の隣」初台駅が放つ独自の存在感 開業時は「改正橋駅」、名前も場所も変わった

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第2次世界大戦中、新宿―初台間にある天神橋変電所が被災し、電車が甲州街道の陸橋を登れなくなったので、急遽新宿駅西口に起点を移設したのだった。同時に省線新宿駅前、天神橋、西参道の各駅は廃止され、新宿の次が初台駅になった。

地上時代の京王新宿駅付近
地上時代の新宿駅付近(写真:京王電鉄)

ただし新宿駅が西口に移っても、駅を出て300mほどは併用軌道のままで、その先は玉川上水に沿っていたのでカーブが多く、スピードアップの障害になっていた。そこで京王電鉄では新宿駅および併用軌道区間の地下化に取りかかり、1963年に完成した。

2代目初台駅の誕生

ところがこの間、東京オリンピックの開催が決まり、甲州街道がマラソンコースになることから、初台交差点で交わる山手通りの踏切を立体交差化して渋滞を緩和することになり、翌年初台駅も地下化された。これが2代目初台駅だ。

2代目初台駅は、2024年春に惜しまれつつ終了したNHK総合テレビの人気番組「ブラタモリ」で紹介されたことを、覚えている人もいるだろう。現在も島式ホームは残っており、トンネルの中なので暗いものの、車内からも見ることができる。

ただし2代目は、1978年までの14年間しか存在しなかった。高度経済成長で郊外の人口が爆発的に増加するのに対応して、京王線は都営地下鉄新宿線との相互乗り入れを決定し、新宿―笹塚間の複々線化を決断したからである。

京王電鉄広報部によると、最初から地下での複々線というプランではなかったようだ。

「当初、甲州街道下の新線は初台駅の先で在来線に接続し、そこから先は高架とする計画でしたが、沿線住民から日照権や騒音などを理由に地下化が強く要望され、幡ヶ谷駅の先で在来線と合流し、高架の笹塚駅に至る形になりました」

つまり初台駅は現在の姿で考えられたものの、幡ヶ谷駅は地上のまま残る計画だったということになる。

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