紫式部「夫亡くし娘は病」それでも強く生きれた訳 悲しみに暮れた式部の心の拠り所となったもの
悲しみと希望と、さまざまな想いを巡らせる紫式部の心が、次第に生への希望の方向に寄っていっているように思われるのです。
悲しんでばかりはいられないと、無理にでも悲しみの心を抑えつけてきたのかもしれません。
誰しも人生思い通りにいかないものです。楽しいことだけではなく、悲しいことも沢山あるでしょう。そのようなときはまずは思いきり悲しめばいい。
でも、その悲しみもある程度の時間が経てば落ち着いてくる。時に、悲しみの感情がまた押し寄せてくることもあるけれども、その感情に支配されず、ゆっくりでもいいから、前を向いて歩いていこう。紫式部のこの頃の歌はそうしたことを、私たちにも教えてくれるように思うのです。
紫式部は、感情に任せて振る舞うのではなく、歌を通して、冷静に自分自身を見つめている。「身」と「心」を分けて、見つめているのです。夫の死、娘の病とさまざまな不幸にも負けず、紫式部が強く生きていけたのも、冷静に客観的に自分の心と身体を見つめていたからではないでしょうか。それにより、紫式部は悲しみから抜け出せたものと思われます。
紫式部の心の拠り所となったもの
紫式部は大作『源氏物語』をいつ書いたのか。その執筆開始時期は、今に至るまでもはっきりしていません。夫・宣孝との結婚以前か、結婚生活中という説もあれば、夫の死後、宮仕えするまでという説、宮仕えしてからという説までさまざまあります。
紫式部は寛弘2年(1005年)頃に、内裏(宮廷)に出仕(宮仕え)したと思われますが、それまでに、つまり未亡人となってから『源氏物語』を書き始めたのではとも言われています。
『紫式部日記』には、未亡人時代を回想するような記述もあり、そこには「ここ幾年か、寂しさの中、涙に暮れて夜をあかし、日を暮らし、花の色も鳥の声も、春秋をめぐる空の景色、月の光、霜雪を見ては、そんな季節になったのだとはわかるものの、心に思うのは、いったいこれから自分はどうなってしまうのだろうと、そのことばかり。将来の心細さは、どうしようもなかった」とあります。
しかし、そうしたなかにおいても、紫式部には心の拠り所がありました。
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