どういうことか。日銀の考えはおそらく以下のようなものだ。
自分たちは専門家として政府から独立した。物価に専念できるように組織の法律も改正された。悲願の独立性を得た。1980年代のバブル時の例に代表されるように、つねづね「物価以外の要素を見ろ」という圧力に屈して、金融政策が歪められてきた。だから今後は、物価以外を見ろという要求には応えてはいけない。
自分たちはあくまで物価の専門家であり、バブルに対処する専門家ではない。実体経済のモデルを前提としており、資産市場、特に株式市場、投資としての不動産市場は二次的な影響しか見ていない。だから、法(のり)を踰(こ)えることはしない。あえて、資産市場、金融市場、そして、たとえ為替市場であっても無視するのが、正しい専門家、政策担当者としてのあり方である。
日銀の姿勢は正しくて謙虚でも、世界は非合理
このような専門家としての政策担当者の姿勢は、確かに正しい。謙虚ですばらしい。しかし、現実の世界はそんなきれいな世界ではないのだ。日銀が自分の専門領域を保守的に謙虚に守って専念しても、外の世界では、投機家、政治家、世界中の欲望にまみれた人々、われわれ普通の個人でさえも、金融市場、資産市場において、欲望にまみれて行動している。世界はひずみにあふれている。非合理性にあふれている。
為替市場は、どう考えても妥当な水準にない。円は安すぎる。「それは日米金利差で説明できる」と言うが、金利差だけでここまで円安になるわけではない。
しかも、一定の金利差が続いているときは、それは円安の理由にならない。為替が金融市場の変数として動くのであれば、金利差が続くのであれば、金利の低いほうの通貨は直ちに減価して(円安になって)、円の長期金利が低い分を円の将来の増加(円高)期待で、今後は円高が急速に進むという見通しにならなければ、理論上の裁定は成り立たないからだ。
つまり、現時点の円安、為替の動きは、合理的には決して説明できないのだ。「いやいや、構造的な貿易赤字体質になっている」とも言うかもしれないが、それにしても過度の円安である。投機家が、これらのひずみを生かして、投機的行動によって歪みを増幅させている。
世の中がノイズと欲望と悪意にまみれているときに、1つの専門組織だけがきれいな世界にとどまっていいのだろうか。世界の人々が全員善意かつ理論的に正しい行動をとるときには、自分の専門だけに邁進すれば世界はうまくいくという理想の世界に生きていていいのか。「日本経済の健全な発展」という最終的な目的のために、自分ができることはすべて行うべきではないか。
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