道長の兄「道兼」頂点に君臨後"7日で死去"の衝撃 父である兼家に抱いていた複雑な思いとは
伊周の主張は、一条天皇にも伝えられます。この抗議を受けて、一条天皇は道隆の意向を尊重し、伊周を内覧(関白に準じる職)に任命します。
しかし、それでも不満を持つ人々がいました。伊周の母方の叔父である高階信順です。
高階氏は、宣旨に「関白病間」とあったのを「関白病替」と、病の期間だけではなく、関白の地位を完全に譲るように変更せよと、大外記・中原致時に迫ったといいます。高階氏の強引な要求は許されることはありませんでした。
父に対して不満を抱いた道兼
伊周にとって強力な後見であった父の死は、大きな痛手となりました。
後継の関白には、道隆の弟・藤原道兼が任命されます。伊周の内覧の職は、停止されてしまいます。前述したような、伊周方の強引な駆け引きで、天皇に嫌われた可能性もあるでしょう。
さて、新たな関白に就任した道兼ですが、彼も自由奔放で酒飲みの兄(道隆)と同じように、キャラが濃い人物でした。道隆は、容姿端麗でしたが、道兼はその逆で「顔色は悪く、毛深く、格別に醜かった」(『栄花物語』)ようです。
一方で性格は「老巧」(老練)で、男らしく、兄・道隆に対しても、つねに教え、諭すような人物だったとも書かれていますが、『大鏡』では道兼の性格に関してもよくは記していません。「無情な、酷いところがある」「人に怖がられる人であった」と書かれているのです。そして「だから、その子孫が栄えるのを見ずに終わった」とまで記されます。
道兼は、父・兼家の喪中であっても、慎むことはしませんでした。御簾を片っ端から開けさせ、念仏・読経をしなかったのです。そればかりか、人々を呼び集めて、『古今集』(古今和歌集)や『後撰集』(後撰和歌集)を見つつ、「戯言」に興じました。父の死を少しも悲しむようには見えなかったようですね。
とはいえ、道兼にも父である兼家に対する想いがあったようです。道兼は、父・兼家とともに、花山天皇を出家させたことで有名です。兼家は自身の孫である懐仁親王の早期の即位を望んでいたので、花山天皇の退位を画策したのでした。
それに協力したのが、道兼です。彼は天皇を内裏から抜け出させ、後ろ髪を引かれる想いの天皇を口説いて、元慶寺まで連れて行きました。道兼には(自分こそが、花山天皇を退位させた功労者)との想いがあったのです。
しかし、父の後任の関白には、兄・道隆が任じられます。道兼は、これに不満を抱いたのです。
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