あわや事故も、大正・昭和天皇の鉄道「ご受難」史 勾配で電車逆走し衝突寸前に、脱線にも遭遇
しかし、脱線・転覆がしばしば起るような危険な乗り物に、皇太子が乗車するようなことがあったのだろうか。
そこで、前掲の『大正天皇実録』で記録を調べてみたところ、皇太子(大正天皇)は1889年から1892年までは毎年のように避寒のために熱海へ赴かれていたが、1893年7月に沼津、1894年1月に葉山に御用邸が建てられると(皇太子の静養を目的として建てられた)、以後は沼津・葉山が冬季の主な転地先となる(避暑先は日光、塩原、沼津、葉山など)。
人車鉄道が小田原―熱海間で全線開通した1896年の暮れからは沼津、翌1897年は葉山で冬を越されており、以後、人車が軽便鉄道(蒸気機関車)に変わる1907年までの間で、人車で熱海に向かわれたという記録は見つけられなかった(そもそも熱海に赴かれた記録がない)。古老の話が具体的なだけに、まったくの記憶違いとは考えづらく、謎である。
なお、1910年12月22日に幼少期の昭和天皇(裕仁親王)が熱海御用邸に赴く際には、軽便鉄道があるにもかかわらず、小田原から熱海まで人力車を利用している。この軽便鉄道については、夏目漱石が未完の大作『明暗』の中で「途中で汽缶(かま)へ穴が開いて動けなくなる汽車」と描写しているくらいだから、信頼度が低かったのであろう。
昭和天皇、あわや御受難
大正天皇が人車に乗られた記録は、残念ながら見つけられなかったが、昭和天皇(裕仁親王)が、前述の小田原馬車鉄道が電化された小田原電気鉄道(国府津―小田原―箱根湯本間)に乗車され、その際、事故寸前の危ない場面に遭遇したという記録がある。
「明治小田原町誌 下」(小田原市立図書館編)に掲載されている当時の小田原町助役の日記によれば、1904年7月8日、箱根の宮ノ下御用邸(現・富士屋ホテル別館「菊華荘」)へ避暑に向かわれる裕仁親王と雍仁親王(昭和天皇の弟。後の秩父宮殿下)、および供奉員が乗車した電車が、定刻より数分遅れて国府津駅を出発し、途中まで進んだ後、猛スピードで逆走したというのである(以下、筆者により現代仮名使い等に変換して引用)。
現場にいた関係者は生きた心地がしなかったに違いない。
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