あわや事故も、大正・昭和天皇の鉄道「ご受難」史 勾配で電車逆走し衝突寸前に、脱線にも遭遇

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もちろん、こうした専用車両だけでなく、一般の車両を貸切で御召列車にすることも多い(近年は新幹線での移動も多い)。また、明治時代、皇太子だった大正天皇の地方視察の際は、臨時列車ではなく「一般客も乗る通常の列車に御料車を連結する場合があった」(前掲書)という。

1号御料車
明治時代に製造された1号御料車(初代)=2008年撮影(撮影:風間仁一郎)
7号御料車
大正時代に製造された7号御料車=2008年撮影(撮影:風間仁一郎)

ご病弱だった大正天皇は、ほぼ毎年、冬になると避寒のため東京を離れられたが、『大正天皇実録』(宮内省図書寮編纂)には、皇太子になられる10カ月前の1889年1月13日に、東京を出立し、当時の熱海村加茂第一御料地を訪れた際の旅程が記録されており興味深い。以下は、『大正天皇実録』よりの引用である。

午前八時 御出門(御馬車)
  御小休 新橋停車場
午前八時三十五分 同所御発車(汽車)
同 十時五十五分 国府津御著
  御小休 同停車場
午前十一時五分 同所御立(鉄道馬車)
  御昼休 小田原駅片岡永左衛門
午後零時三十分 同所御立(人力車)
  御小休 江ノ浦村富士屋増太郎
  御小休 吉浜村橋本三平
午後四時二十五分 熱海村加茂第一御料地御安著
(筆者注:御「著」、御安「著」は原文ママ)

東京から熱海まで、丸一日がかりの行程だったことがわかる。新橋から国府津までは官営鉄道の汽車に乗り、国府津で、この前年の1888年10月に開業したばかりの小田原馬車鉄道(国府津―小田原―箱根湯本間 12.9km)に乗り換えられている。

小田原から熱海へ4時間

この馬車鉄道は、国府津以遠の東海道線が、現在の御殿場線ルート(国府津―御殿場―沼津間)で建設されることになったため、街の衰退を危惧した小田原・箱根の有力者らが発起人となって敷設したもので、1900年に電化され(小田原電気鉄道)、今日の箱根登山鉄道へと発展していく。

続けて旅程を見ていくと、小田原駅で「御昼休」をとられているが、この小田原「駅」とは鉄道駅のことではない。明治初期に従来の小田原宿などの「宿」を再構成して設置された行政区画の「駅」である。1889年4月以降に施行された町村制により小田原駅は廃され、小田原町が誕生する。

小田原駅から先は、途中、2度の「御小休」を挟みつつ、熱海まで人力車で4時間がかりの旅であった。「熱海風土記」によれば、当時、教養主任だった陸軍中将・曾我祐準(そがすけのり)が「小田原から人力車上に十歳の皇太子(注:原文ママ)を抱いてやってきた」とある。ご病弱の大正天皇にとっては、難儀な道のりだったに違いない。

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