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あわや事故も、大正・昭和天皇の鉄道「ご受難」史 勾配で電車逆走し衝突寸前に、脱線にも遭遇

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  • 森川 天喜 旅行・鉄道作家、ジャーナリスト
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さらに悪いことに、ここに後続列車がやってくる。

小田原を発し来りし普通客車は後方より進行し来りたれば、これと尖突を来すは必然に、各々帽子を振り声を揚げ狂気のごとく種々の動作をもって退却をなさしめんとするも、距離は益々短縮し安き心はなかりしに、漸(ようや)く後車も気付き退却を始め、大窪村御塔を西に去る二丁(218m)ばかりの鉄道線の複線に至り、地勢は少し高くなりたるため惰力を滅し停車し、尖突の災害を免れたりしも、最も短距離は両車の間、ついに四尺(1.2m)程となりし時は尖突したりと思われたり(後略)

こうして間一髪、衝突事故を免れ、その後13時40分に電車の進行を再開し、14時に湯本に到着したとある。

当時は、我が国に鉄道が導入されてから30年、初の電気鉄道(京都市電)が営業運転を開始してから9年という、鉄道という乗り物がまだまだ未熟な時代であった。何事もなくてよかったが、これがもし事故になっていたならば、どうなっただろうか。

実際に脱線事故も

実は、裕仁親王ご乗車の車両が脱線したことがある。『昭和天皇実録』の1907年1月23日の項に、裕仁親王が沼津御用邸に滞在中、三嶋大社を参拝した帰路、駿豆電気鉄道(後の伊豆箱根鉄道軌道線・三島―沼津間。1963年廃止)に乗車された際、「黄瀬川を通過して間もなく御乗車の電車が脱線するも、程なく復旧し、午後四時御帰邸になる」と記されている。幸いにも人身事故に至らなかったこともあるだろうが、非常にあっさりと記述されている。

ところが、天皇の御召列車が脱線したとなると一大事であった。1911年11月10日の昼過ぎ、福岡県久留米市周辺で行われる陸軍大演習へ向かう明治天皇ご一行が、下関より御召艇で門司に到着された。ところが、門司駅から乗車される予定の列車が、駅構内での入換作業中に脱線。復旧までの間、明治天皇がおよそ1時間にわたって粗末な「鉄道桟橋元旅客待合所」(11月11日付東京朝日新聞)で待つこととなった。この事態を受け、翌晩、1人の門司駅員(構内主任)が自殺している。

門司駅構内での御召列車脱線を伝える1911年11月11日付東京朝日新聞記事(当時の紙面から引用)

今もそうだろうが、当時の鉄道員たちが、いかに大きなプレッシャーと責任の下、御召列車を運行していたのかをうかがい知ることができる事件である。

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