「年金の神様」が失脚、次官を目前に厚生省を去る 年金を巡る攻防の全記録『ルポ年金官僚』より#3
なぜ、国民皆年金という国家的プロジェクトを、一糸乱れぬ形で進められたのだろう。2つの要因が考えられる。まずは役人たちの気概だ。
古川は千代田区麹町のオフィスでこう回想した。
「いまは官邸からやれと言われて官僚はシブシブやってるように見えるけど、あの頃はみんな意気に燃えていた。俺たちが年金制度をつくるんだと。もとより制度の大枠を決めるのは政治で、たくさんある白地部分を行政官が固めていく。やりがいがありました」
古川の5期先輩にあたる吉原健二はこう語る。
「当時の嫌な思い出がないんですね。厚生省というか、私どもがやりたいことができた。国全体の中で社会保障の予算のウエートは非常に小さくて。これから社会保障の制度を整備していく時代だった」
第二に、役人のやりがいを引き出す小山の手腕である。
部下たちには勉強を求めた。「大学の講師になれと言われたら、いますぐできるように」と言い、顔を合わせれば「君はいま、何を読んでいるのか」と聞いた。山崎圭の結婚式で祝辞に立った時には「新婚なりといえども、早く家に帰るなんていうことは考えないでください。覚悟してください」と述べている。
いい加減な報告には「味噌っかす!」と突っぱね、容赦ない。課長たちは「閣下」と畏怖し、局長室に入る時には足が震え、小山のOKが出ると飛び上がらんばかりに喜んだという。
鍛えられた集団は「小山学校」と呼ばれた。人に厳しく自分にも厳しい。すべての責任は自身が負う。これ以上ないリーダー像である。後に小山は「年金の神様」と称される。
その小山が、右腕として重宝したのが、福祉年金課長の高木玄だった。
1964年に古川は、福祉年金課の女性職員と結婚するのだが、仲人は高木夫妻である。
国民年金の産みの父が小山さんとすれば、母は高木さん──。吉原はそう指摘した。
大山小山事件
反対闘争を乗り切った1962年7月、人事異動が行われた。国民年金、厚生年金の実務を所管する厚生省の外局として社会保険庁が発足し、大規模なものとなった。
小山は、その異動で保険局長に就任した。省内の誰もが、小山は数年後には次官になるものと思っていた。
1965年、官僚の出世は、実力だけではどうにもならないことを知らしめる事件が起きる。いまも語り継がれる「大山小山事件」である。
診療報酬は、厚生大臣の諮問機関・中央社会保険医療協議会(中医協)で決まる。ところがそこで提案された引き上げ幅8%に医師会が納得せず、膠着状態となっていた。厚相の神田博は1965年1月、中医協の答申を待たずに9.5%引き上げる「職権告示」を断行。日本医師会会長・武見太郎(現厚労相・武見敬三の父)が「武見天皇」と呼ばれ、自民党に絶大な影響力を持っていた頃である。
反発した健康保険組合連合会(健保連)と4健保組合は、告示取り消しの行政訴訟を起こす。厚生省の予想に反し、東京地裁は4月、本訴確定までの間、告示の効力を停止する判決を下した。小山は決定の効力を4健保の加入者のみに認めた。